2014/06/06 Fri 

「正解はない」を端として。


何から始めようか。頭のなかに溜めてきたことはあまりにも多すぎて、どこから始めようか検討もつかない。まあ、いつも検討をつけて考え始めるわけではないので、頭に浮かんだ順から書き留めていければと思う。だから僕がいつも言われる長いだの読みにくいだの、そういったことはちょっと無視させてもらう。とにかくここに落としこむことが、可視化して残しておくことが大切だと思っている。

まず、僕という人間が考えるときは、どうしても日本語を使わなければならない。英語や他の言語は使えない。だから恐らく、相対的に日本人的思考に近づくのだろう。日本人的思考が何かは分からない。いや、日本人的思考というよりも普通に日本語に縛られた思考になる、といえばいいのか。

まずここでひとつ思い浮かべた。それはわざわざ難しく表現することについてである。と書こうとしたが、これまた「私はこんなことが書きたいわけではない。いや、正確にいえばこれについても書きたいがもっと書きたいことがある」という思いが浮かんだ。そしてこれを書いている途中に、これは素直になる練習になるのではとも思った。書きたいことを書く、という素直な気持ちに気付く練習かな。

そう思ううちにまた、記述と思考の速度の違いによってなかなかいつも思っていることが書けない事が判明した。タイプミスも加わってイライラが募る。こんなことで書ききれるのだろうか。

ひと休憩入れて。

最近のテーマの一つである、「正解などない」ということについて。大学生になってから、しきりに「何が正しいかは自分で決めろ。」「正しいなんてものはない。」などと言われてきた。自分に自信がなかったのか、はたまた素直だったのか僕はなるほどと思った。そしてそこから導き出される答えの一つの「だからやりたいことをやればいいじゃん」という言葉に同意して大学生活を過ごすことにした。

大学生活がどうなったかは、今はちょっと置いといて。「正解などない」ということに対して観察をする。ここから読み取れること、起きることはなにか?

  1. やりたいことをやればいいという考え方の(後付け)正当化
  2. 少なくともその人は正解を追求したこと
  3. 価値観の多様化と、それに伴う相対的肯定力の低下
  4. 宗教の蔓延
  5. そして更にいうと、本当に正解などないのか?そうなった場合、哲学や宗教はどうなるのか?
  6. ないならば、なぜ人は何かを断言"できる"のか?なぜとある行動は賞賛されるのか?法の役割はなにか?

今日はここまで。2014/06/06

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