海という言葉を知る前に海水に浸かるということ。

海という単語を知る前に、現実世界の海を体験するということはつまり、幼少のうちに実際の海と対峙したということなのだけれど、大人になってから知り合った友人の中には、山に育ち中学生になるまでは海を見たことがなかったという人もいる。

海辺の町に生まれ育った人の中には、自分が始めて海を見た日の記憶がないことも多々ある。つまり親御さんに連れられて、物心のつくまえから海水に浸っていた人達だ。そういう人達は「海」という単語を習う前に実際の海を経験しているので、海に驚くという瞬間はない。

その驚きは毎日白米を食べて育った人間が、大人になり始めてパンという食物を目にしたときのものと似ているだろうか。

山育ちの彼にとって海は、本やテレビ画面では見たことがあったし、ある程度のイメージもしていた。それでも中学生になったときに始めて山を降り、海のある場所まで出かけて行ったときの驚きはとてつもなかった。はっきり言えば、、

「余りに巨大で小便を漏らしそうになった。」

それくらいの興奮や驚きが海のスケールにはある。ところが、海辺で育った人種にとって海の大きさというのはイメージや画面ではなく、実際にどこまでも続く奥行きや水平線であるし、実際に海水を飲み込んだ折りの塩辛さや足の届かない深さ、それから大きな船の浮かぶ異様な景色からくる。

「海」という単語を知る前に「海」そのものを知ってしまうと、漢字一文字では表し切れなかったその途方もない大きさに由来する「小便を漏らしそうな」驚きの体験を、子供心に記憶しておくのは大変難しい。

体験は多くの場合文字を越える。

自分の人生で初めて海に入ったのは一体いつのことなのか。

幼過ぎて思い出せるはずもない記憶を初夏はいつも探させる。