これは誰しもが経験することだろうけど、「知り合いかも」と言って本物の知り合いが正確にサジェストされてくる。見たくもない過去が。そのグロテスクな今が。アルゴリズムの悪意としか表現し得ない正確さで襲いかかってくる。
写真に写る彼らは当たり前だけどみんな老けていて、女は大抵苗字が変わっていた。ちゃんと年齢相応に人生を前へ進めているのが分かる。(俺の地元はかなりの田舎だから)羨むほど成功してる奴なんて一人もいなかったけど、それでもある程度のダメージがあった。意地の悪さを働かせれば、それが底辺だと気付きもせず、恥じ入ることもなく載せている様は本物の底辺だと言う事もできる。でも彼らなりに人生を楽しんでいるようだった。
とにかく子供の写真を上げている奴が多かった。(これは知り合いに関わらずいつもの事なのだが)プロフィール画像として自分自身の写真ではなく、子供の写真を載せているのを見ては、このようなアイデンティティの移譲が起こるのを憐れに思った。或いは喜ばしいことなのだろうか?
無邪気に笑う子供の顔に明らかな知己の面影を見付けては、俺たちの生きたあの過去が半分だけ繰り返されるのだ、という啓示を得たりした。一本の厳格な時間軸が引かれているように思われたこの世界が、実はそうではなく、曖昧な繰り返しの夢の中なのだという認識に変わっていく。
現実的な話、田舎に生まれる事がどれだけの損失か。もしも都会(社会)に出ようと思ったら何もかも捨てて行かなきゃならない。友達も、家も、何もかも捨てて知らない土地へ行き、孤立無援の戦いをしなくちゃならない。帰ることはできる。でも連れていくことはできない——。それがどれだけの負担になるか。
外界へ出ようとせず、何もない田舎に甘んじて生きることもできる。単純な話だけど、それを実際にやったのが親世代で、ゆえにその子世代は田舎に生まれたということになる。
田舎での生活に甘んじた人とはどんな人か。或いはその選択によってどうなっていくのか。残念ながら、その教育水準や文化水準の低さがある程度保障されてしまうというのが現実だ。親を含め身近な人間すべてがそう(もちろん学校の先生でもそう)である環境は、子供の感化を制限してしまい、それが田舎に生まれ育つことの重大なハンディキャップになってしまう。
彼らの子供を見ながらそんな不安を禁じ得なかった。人は産まれた時点で既に平等じゃない。まずは地域格差を、既に背負わされているじゃないか。お前らは、自分だってそうだっただろうに。どうして繰り返したのか? どうして自分の代で変えてやらなかったのか?
数年前に(とうに交流が無かったので)父親経由で来た同窓会の連絡。そのメールにはここに連絡を寄越してくれと、あまりに懐かしい名前と、090で始まる番号が書いてあった。
今とはまるで連続性が無いように思えるあの遥かな過去が、この世界のどこかに今も存在していて、090-xxxx-xxxxという誠に確かな実在さえ持って突然目の前に現れたのだった。「あの時代、あの世界に携帯など無かったはずなのに。」そんな混乱を感じた。
連絡もせず、行かなかった同窓会。その写真が上げられているのを見た。
俺が一秒でも早く捨て去りたいと思ってたあの田舎の人間関係、自分自身の過去を、こいつらは肯定的に見ているというのが、すごく異質なことに感じた。俺と彼らを隔てるものはそこなんだろう。
多分彼らは、互いに互いを、楽しかった過去の残滓のように見てるのに違いなかった。キラキラとした美しい思い出のよすがとして。そのかけがえのない証人として。写真に写る笑顔を見てそんな風に感じた。
どうして自分の子供に再び産まれる繰り返しを良しとしたのか。どうして田舎での子育てを良しとしたのか。その答えもそこにあるんだろう。結婚や出産、そもそも人生それ自体に対して前向きになれるのも、全てはその肯定感ゆえなのかも知れない。