スケジュールを埋めない努力

あなたのカレンダーや手帳には、明日や明後日の仕事予定が書いてあるだろうか?

一般的な仕事の出来る人というイメージは、仕事のスケジュールが翌月や翌々月までびっしりと埋まっていて、携帯電話を片手に連絡をとりながら慌ただしく仕事をしている人だと思う。

でも騙されてはいけない。
その人は仕事が出来ない人だ。
正確に言えば、仕事が下手糞な人だ。

仕事のスケジュールが埋まっている = 仕事がひっきりなしに舞い込んでくる = 優秀

と考えやすい。

しかし、それは違う。
仕事のスケジュールが埋まっている人は、不要な仕事を断れなかったり、上手く同僚や部下(または上司)に仕事の分担が出来なかったり、
情報共有を怠っていたりして、そのツケがすべて自分に跳ね返って来ているだけだ。自業自得。

さらに困るのは、そういう人は大概忙しいアピールを周りにする。
そうすることで自分の小さな承認要求を満たしている。誰しもがされた経験があるだろう。周りの人にとっては不快なだけだ。本当にやめてほしい。

本当に仕事が出来る人のスケジュールは、ほとんどが空白だ。最小限の努力で、最大限の成果を発揮する。それが真に仕事の出来る人だ。

特に、創造性が試される仕事をしている僕たちのような人間にとって、スケジュールは埋めるべきではない。出来るだけ、自由に活動できる時間を増やすべきだ。

スケジュールが埋まっていて時間に追われていて仕事をしていては、創造的な仕事ができない。人間は集中モードに入るのに、ある一定の時間を要する。30分後に進捗報告会議がある時に、集中モードに入るのは不可能だ。自分が一番集中出来る環境を考えれば簡単だ。家のデスクだったり、図書館だったり、カフェだったり。ある程度まとまった邪魔のされない自由な時間が取れた時だ。集中し創造性を発揮するためには、そのような時間を確保しなければならない。

さらに言えば、自由な時間すべてを、仕事に割り当ててはいけない。
集中できる時間には限度がある(個人差はあるが)。適度に休息や休暇をいれなければならない。トイレやお風呂のリラックスできる空間で、ふと良いアイディアが思い浮かぶ経験は、誰もがあるだろう。創造的な仕事をしている人間には、それが必要だ。散歩したり、本を読んだり、料理をしたり、友人と話したり、食事をしたり。その時間を心から楽しむ事も仕事の内だ。

カレンダーの予定はなるべくあけるようにしよう。
時間をちょっとくらい守らなくても、大丈夫だ。

あなたの自由な時間から、革新的なモノが生まれ、社会が潤う。


常識を疑おう

思考停止

人生は選択の連続である。しかしその選択の時に、本当に自分の頭で考えて選択しているだろうか。条件反射的に判断していないだろうか。こうするのが常識だからと、他人の判断をあたかも自分で考えたかのようにして選択していないか。

この情報過多な時代の中で、僕たちが下さないといけない判断は多すぎる。そのような環境では、前例に従って判断してしまうのも良い戦略だろうと思う。しかし自分の頭で考えなければならない前例のないシチュエーションに出会ってしまった場合、その時正しい判断が下せるのだろうか。普段から自分の頭で考える訓練も必要ではないのか。常識を疑おうともせず、思考停止をした人間があまりにも多い。

なぜその手紙を送るのか?

今年、年賀状を書いた方はいるだろうか。配達される年賀状の枚数な年々減少しているとはいっても、日本人の半分以上の人が年賀状を書いたのではないだろうか。僕も中学校くらいまでは書いた覚えがある。しかしちょっと疑ってみてほしい。なぜ1月1日に知り合いに、あいさつの手紙を届けないといけないのか。なんの為に、その手紙を送っているのか。その知り合いからよく思われたい?その知り合いと今後も一緒に仕事をしたい?本当に信頼できる間柄であれば、そのような挨拶は不要ではないか。なぜ日本人は年賀状を送るのだろう。

年賀状の由来を考えてる。もともとは新年のあいさつに伺うことのできないような遠方にいる知人へ書面であいさつを送るという所から始まった。もともとは貴族の間の風習だった。年賀状を送るという行為が国民の間に一般化したのは,明治時代になって郵便制度の発達とはがきが登場してからである。お年玉付き年賀はがきが登場したのは、戦後であり、まだ70年弱の歴史しかない。

なぜ年賀状を送るのか。周りの人がやっているからという人、イベント感覚で送る人が大半だろう。本当にその知人の新年あいさつをしたいという意識を持って年賀状を出している人は、ごく少数だろう。

携帯電話の普及率が99%もあるのだから、本来の年賀状の目的を達成するにはメールやSNSで必要十分である。なのに、未だに年賀状を出し続けている。

特に企業やお店からの年賀状はひどい。ただのダイレクトメールだ。年賀状に託つけたダイレクトメールの一斉送信に過ぎない。郵便受けに毎日投函される大量のチラシと大差ない。そんなものが企業やお店の利益向上にほとんど繋がらないのは、一消費者として考えれば至極当たり前の事実である。

なぜ結婚するのか?

僕の年になると、まわりの友人が結婚式を開催し始める。結婚は、男女が番として一生を共に生きることの誓いだ。しかし現代日本では、結婚した男女の約3割は離婚してしまうらしい。そんな簡単に破棄できる誓いなら、なぜそもそも結婚式なんて仰々しい式を開いてまで、親族や友人に結婚したことを広め、祝ってもらう必要があるのか。神や仏の前で行う誓いはそんな軽いものなのか。

しかし、狩猟採取の生活を営むアフリカの部族の間でも結婚の際には儀式を行う。これはなぜだろう。

結婚式とは、男女のペアが社会に対して番となることを宣言することによって、夫婦の絆を社会に承認してもらうと同時に、絆の関係を支援してくれるように社会にお願いするという式だとする考え方がある。僕はこの説がかなり説得力が高いと思う。原始社会では男女が役割分担を行い、男が狩猟、女が子育てと採取をするのが普通だった。その狩猟や採取の間はそのペアが離ればなれになってしまう。そのときのペアの絆の信頼性を担保するために、社会に対して宣言しなければならなかった。またペアが互いに直接監視出来ない状況においても、間接的に社会に監視してもらうことによって、高い信頼性を担保できる。

まとめると、結婚式というのは、社会に男女ペアが結婚したということを宣言し、宣言を通じて社会にその絆を持続を助けてもらう儀式である。

しかし、現代の日本の結婚式はテンプレート化しており、その意味は薄れている。ただのパーティーに合コン組み合わせたものに過ぎない式も多い。簡単に結婚をし、簡単に離婚してしまう。籍を入れない事実婚という状態のペアも増えており、国家の認める婚姻関係の意味も薄れてきているといえる。SNSのrelationshipのステータスをmarriedに変更するのと、大差ないのかもしれない。男女の性差別が減少し、女性の社会進出が増えた今、結婚とは結婚式とは何なのか、再考すべきなのだろう。

我思う、故に我あり

年賀状と結婚式の2つの例を見た。身近で分かりやすい例として、この2つを取り上げてみた。このように日々の常識や習慣となっている事象を疑い、物事の本質について考えた方はどれくらいいるだろうか。

デカルトは、すべてのものを疑い、疑いつくして、真では無いところはことごとく切り捨て、本当の真実は何かということを考えた。その真であると思われる公理系から理論を1から作って行こうという試みである。デカルトがたどり着いた立った一つの真実は、「我思う、故に我あり」というたった1つの事実しかなかった。すべてものが疑わしいが、それを考え疑っている自分が存在するという事実だけは、確かな真実であるということである。

そこまで疑いつくすのは至難の業ではないし、そのように考えていては現代社会を生き抜く事はできない。しかし常識や慣習にとらわれず、もっと自分の頭で考えるということを僕は推奨したい。

「人間は考える葦である」というパスカルの名言があるが、逆にいえば考えない人間はただの葦にすぎないと言えるのかもしれない。本当に考えなければいけない選択肢に出会ったとき、ただの葦ではその状況を切り抜けることはできないだろう。


分業

市場経済

市場経済の基本は分業にある。交換を奨励する市場の誕生によって人類は分業することが可能となり、各々が得意とする分野に専門化することが可能になった。一見、人類の生存に対して必要のないサービス業(エンターテインメント業や情報技術産業など)が現在の社会に存在できるのも、市場が存在するおかげである。さらに、交換を推進させる貨幣という媒介が発明されたことによって、市場における取引は爆発的に増大した。現在、国家とか地方自治体という規模の社会では、価値は市場によって交換が行われる。

会社の中の分業

そこで、少人数のグループではどのように価値交換を行うのが良いのか考えてみたい。あらかじめ言っておくと、僕は経済や経営の専門家ではないので、間違っていることや既に結論が出ていることなど多々あると思う。そのときはぜひ教えてもらいたい。この動機としては、私は現在従業員が10人に満たないような小さな会社を経営しているからである。どのようにして分業(役割分担)をして、価値の交換をすると、会社の成長に一番良いのかと日々考えている。

社会の目的は社会の生存と発展である。会社の目的もその生存と発展であり、その差はほとんど無いだろう。従業員が1000人とか10000人とかの規模になれば、小さな地方自治体以上の社会を形成しているといっても良いのではないかと思う。

違いとしては会社には分かりやすい具体的な目標が存在する。来月の売り上げ目標とか、このプロダクトを期限までに作るとか。

残念ながら、一般的な会社においては、市場経済の手法や価値を媒介するものを導入している会社は無いと思う。ある人が別のある人に対して何か役にたつ事やものを渡しても、見返りとしては(将来、あるいは過去)役に立つ事やものとなる。または、会社における評判や出世、賞与などの間接的なものでしかない。これは物々交換の手法とあまり変わらない。

ミクロな価値交換の仕組みの考察

会社という小さな組織においても、貨幣のような交換を促進させる媒介を導入して、市場経済の方法論を適用してみるのはどうかと考えた。具体的にどういうものを媒介にするのが良いのだろうか。

なにも考えないと、社内の仮想貨幣(ポイント)みたいなものの導入という、絶対だれも使わないようなものになってしまう。そのポイントが給与に反映されるといっても、誰かに頼むにもポイントをやり取りしないといけないなんて、手続きが面倒くさすぎて無理だ。それこそ、1つの備品を買うのに、〜長や〜部のハンコを10個くらいもらわないといけないような、大企業ごっこと同じになってしまう。

どこかの会社が、日々の日報のなかで、ポイント制で他の人を評価させ、それが給与に反映されるというのをやっていたというのを耳にした気がする。これもまた問題があると思っていて、人間は将来の利益より目先の利益を優先する傾向があるので、給与という月や年に数回のもたらされる価値では、市場経済の方法論の導入にはならない。

僕たちはコンピュータのプロフェッショナルの企業なのだから、仮想貨幣をやりとりを自動化させ、いかにも価値を払った or 価値を受け取ったと錯覚させるかのような可視化/体験化手法を考えてみるというのもありかもしれない。

今回の市場経済の方法論の話とは少し傾向が違うけれど、FacebookのLikeやGitHubのStarは、ちょっと近い気もしてくる。

具体的な方法は難しいのだけれども、このような市場の方法論を用いると、お互いがより協調しあって、会社の生存と発展に寄与できないかなと思っている。相手の仕事を手伝ってあげたり手伝ってもらったりして、分業を促進させて、会社の中における専門性を高められたら良い。ただ専門家になりすぎるのも問題があるとは思っていて、その辺りのさじ加減も難しい。また、このような市場経済の方法論を導入することで、手伝ったり手伝ってもらったりする行為を、よりポジティブな感情で行えれば、各々が気持ちよく会社での生活を送れて良いのではないか。

結論は全然ないのだけれども、このように経済学的な方法論を、スケールの小さい会社やグループの運営に応用するというのは、結構面白そうだな最近と思っている。今後も色々とサーベイしたり、考えていみたい。

Takashi AOKI

Hacker/Co-Founder/CTO at Xcoo, Inc.

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