「分からない」ということ

今、また思いつきでこの記事を書いています。なんだかパッとしない気分で、ほとんど物の置かれていない無機質な自室の真ん中で、一人考え事をしています。今まさに書いているこの文章は、自分の今現在の脳の中に流れている思考を、なるべく忠実に再現することが目標です。一切飾ることはありません。

将来のキャリアを考えていく中で、自分が将来何をやりたいとか、どんなことを目指して生きよう、とかそういうことははっきりと分かりません。最近、特に情熱を注ぎたいと思うことも不思議と出てきません。勉強はそこそこに。ビジネスとかって本格的にやってみたいけど、今はプライベートな生活を大事にしたくて、リスクを取れないのです。自分のためを思ってプライベートを大事にしているのに、なんかパッとしなくなってきた。

パッとしないから、はっきりとした活動を、「自分は進歩している」というなんらかの実感を得たくなってくるものです。しかし進む方向が分かりません。「進むべき方向」などないのはわかっています。そんなものは各々が決めることです。優柔不断な自分は、すっかり決められません。わかるでしょう。自分の目の前に広がるあらゆる選択肢に、妙に納得がいかない時。パッとしない。踏み切れない。だから情熱もない。渋谷の街で、昼ごはんを食べるレストランを探している、すっかりお腹が空いているはずなのに、お金をかけられないだとか、自分はイタリアンしか食わないというこだわりが捨てられないせいで、自分の目の前に広がっている豊かなはずの選択肢全てに納得がいかないのです。渋谷の街でさえ、昼飯を食うレストランが決められないほどの優柔不断な人間は、ダメだなあ…と自分でもちろんわかっているけれど、今自分は人生の道において、そんな気分です。

だから、自分の部屋にじっくりと座って、考えようとする。「自分は将来何がしたいのか。」そう問いを投げかけたところで、今度は、「こういうところで無理やり考えながらひねり出した答えって、本当に自分にあってるのかな?」とか疑い始めるんです。脳が勝手に。「今は無理やり目標とかひねり出して作らなくても、そういう作為的なものがむしろなくって、自然に情熱が出てくるものに向き合う方が幸せなんじゃない?」とか。余計な思考がポンポン出てきて、結局決められないんですよね。動けなくなるんです。

僕はいっその事、狂信的になりたいとよく思ったことがありました。実際、高校の頃はそうだったのです。東大の価値を盲信していたおかげで、あんなに一途に勉強に身を注ぐことができたのです。自分に関して言えば、何かを盲信できるちょうどいいくらいに馬鹿だったのです。今は、「ものの価値を疑う」という余計な習慣を身につけてしまったから、幸か不幸か、狂信的にはなれない。常に全てを疑い続けています。全てかどうかは分かりません。要はどの選択肢にも自信がないだけなのです。だから自分がもし宗教的信条を持っていたなら、と思ったこともあります。残念ながらありません。でも、宗教的な信条を持っている人たちの、芯の強さに時々憧れることがあります。日本人の多くは、宗教をちょっと差別化して考えすぎと思うことがたまにあります。自分たちも、「当たり前のように信じていること」をたくさん持っていることに気づいている人は少ないです。これは自分が宗教に対して強い偏見をもっていたときに、信仰心を持っている人と強く本気でぶつかり合ってから気づいたことです。そのあとから、「自分が当たり前のように考えていること」を注意深く疑うようになりました。だいぶ相対的になりました。

今、僕は思う通りに文章を綴っています。最近、大学に入ってからずっとこうなのです。自分の心を、うわーっと轟かせてくれる何かを無意識に、受け身に待っているのかもしれません。そんなものがあるのかどうかも知りません。自分で「これだ」と自分を納得させて進むしかないのかもしれません。人生は本当に先が分かりません。僕は人生はギャンブルだと思っています。本気で思っています。優柔不断な人間は、ギャンブルは弱いでしょうね。これじゃあいけません。思い切りの良い、なおかつ冷静な人間でなければなりません。

自分の活動には、常に自信がありません。どうして何でしょう、自分がどうしてこんなに自分に自信がないのか、知りません。私は常に、人の賞賛と観察がなければ生きていけないのです。努力が必要なことをする時はいつもそうです。はじめは人の賞賛があってから、私はやる気を発揮します。私は無意識に、自分は有能であると(現実がそうかはさておき)周囲にアピールしたいのだと、思っています。Facebookの投稿はいつもよそ行きです。何か、「躍動感」をアピールできるネタをいつも探し回っているのです。自分の本性のとんでもない汚さには気づいています。ただ自分と似たような人はたくさん知っています。しかし彼らは素敵な人たちです。そして私と同じように自分たちの本性の汚さも自覚しています。人間みんなそんなものだと、可愛いものだと思っています。失礼でしたら、すみません。

さて自分が何をしたいのか、今この瞬間どうすべきなのかどうか、慎重になろうとすると実は何にも踏み出せないのです。だから、慎重に考えないようにすると、とりあえずはことが進みます。慎重に考えないと言っても、二つあります。一つは、「とりあえず勉強しとこう(とりあえずdisciplinedなベクトルへ)」。二つ目は、「YouTubeでも見るか(自分の刹那感情に正直になるベクトル)」です。慎重に考えようとすると、上の二つのどっちがいいのか、本当にわからなくなるのです。当然です。わかるわけがないでしょう。人生のすべてを考慮した上で、なおかつ将来を予測したり世界を分析した上で、大局的に判断を下すことなど、常人になせる技ではないですね。

誰かに導かれたい。そう思ったり。あるいは、「自分は絶対にストイックでいる!」と徹底できるだけのモチベーションと勇気があれば。しかしその道を信じきれない自分がいる。人生ってそういうものでしょうね。いくらそこらに転がっている意識高い本を読んでもわかりません。結局こういうことも全部、自分で決めなきゃいけないのが人生だろうと。

自分はちょっと、小難しく考えすぎる癖がついたようです。まず行動、行動、そんな風に生きれるようになったらと思います。この記事をポジティブに無理やり終わらせようとは思いません。そういう雑な考えが苦手です。いつも、がっかりするのです。そうやってポジティブに無理やり終わらせるのが、お決まりだからです。「ああそうか、結局無理してこう考えるしか手段はないのか」と、当たり前の事実に向き合うのが嫌なのかもしれません。

こういった長ったらしい思考をすべて省いて、フィルタして、人に笑顔で向き合うのが人でしょうか。「こんな男は大嫌い」と言われるのは知っているから、もちろん決断的な人間を演じるでしょう。人の前では。ただ、自分の正直な気持ちは、いつもいつも「分からない、分からない」です。この記事の目的が、脳の思考を忠実に再現することであるならば、ここでこの記事は終わりです。

なんとなく、ポジティブに終わらせたい自分がいるのは知っています。ただ今日だけは、ぐっとこらえて、あえてここまで。このモヤモヤこそ人生にあるものなのかなと思います。