変わり続けることと不変であること

「スタイル」

ファッション業界で最近、盛んに「スタイル」という言葉が持ち出されることが多い。「あの人にはスタイルがある。」と。

最近のスタイル志向とは「変わらない何か」を追うことに重点があるように思う。2001年に登場したトム・ブラウンがその筆頭だった。彼はグレースーツのみをストイックに15年作り続けている。

もともとスタイルとは、紙がない時代に、蝋板に字を刻むために使われていた鉄筆の「スタイラス(stylus)」が語源であり、またスタイラスは、鉄を意味する「スチール(steel)」や、短剣の「スティレット(stilett)」と同じ語源を持つ。つまり、「硬質なもの」だということだろう。

その「スタイル」が意味を広げ、まずは文体へと広がった。

文体について、ショーペンハウエルは、「精神の持つ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違い様のない確かなものである」と説明した。また、リベラリズムの祖であり、カントやヘーゲルを批判し、自身の哲学体系を確立したフリードリヒ・シュライアマハーは「対象的に顕現した個性的法則性」と説明した。

つまるところ、文体におけるスタイルは、「個人の固有性」と言っても差し支えないような気がする。

そして、「スタイル」はまた意味を広げ、様々なものを説明するようになった。ロングマンは「way of doing something」と説明している。

さて、この「スタイル」を改めて考えるにあたったきっかけは、デビッド・ボウイだった。

デビット・ボウイ

以下、ざっとデビット・ボウイの経歴をおさらい。

デビッド・ボウイは60年後半から70年代のカウンターカルチャーの中心人物としてデビューし、その後、宇宙からやってきた架空のロックスター「ジギー・スターダスト」としてグラム・ロックのさきがけとなった。

70年代中盤には原点回帰するも、後にベルリン時代と呼ばれる70年代後半には、「シン・ホワイト・デューク」としてナチズムに傾倒したようなステージパフォーマンスを行い、物議を醸すことになる。

80年代にはこれまでの系譜をすべて精算しようと、自分自身について歌った「アッシュ・トゥ・アッシュ」を発表。そして、83年に興業的には自身最大のヒットである「レッツ・ダンス」をリリース。カルト的ロックスターから正統派のポップスターの脱皮に成功し、正統派ミュージシャンの地位を射止めた。

しかし、90年前後には「ティン・マシーン」という4人のシンプルなバンドを結成し、「もう過去の歌は歌わない」とまで発言。新たなデビッド・ボウイを始めたかに思えた。

だが、91年のアルバムを最後にティン・マシーンとしての活動は休止し、93年からはソロ活動を再開させる。

93年、95年、97年、99年、02年、03年、とコンスタントにアルバムを発表し続け、2004年の「リアリティ・ツアー」中に動脈瘤で倒れて以降、活動がストップするが、2013年に66歳の誕生日にカムバック。

そして、先日、癌で亡くなった。

再考

冒頭にも書いたように、スタイルとは何かといういと、「硬質なもの」つまり、「なかなか変わらないもの」でかつ「自分とは何者か」という問いに答えるものである。また、文体の認識の即していうと、固有性であり、他者との差異ということになる。

というのが現時点での認識だ。

そこで、1つの問い。「デビッド・ボウイにはスタイルがあったか」。

「あった」と僕は思う。しかし、この時、頭が混乱した。スタイルが硬質で、なにか幹の通ったものであるならば、デビット・ボウイのスタイルとは何だったのか。デビッド・ボウイは「変化している」。

彼がスタイルを持っていたとすれば、その不変のものとは何だったのか。

彼はもちろん、他者との差異を持っていた。しかし、常に過去の自分自身との差異も持ち続けていた。

時は人を変えるが、前の自分には戻れない

デビッド・ボウイが1972年にリリースした「チェンジズ」。まだジギー・スターダストになる前の曲にも関わらず、彼の信念にも聞こえる歌詞が幾つもある。

Ch-ch-ch-ch-changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Don’t tell them to grow up and out of it
Ch-ch-ch-ch-changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Where’s your shame
You’ve left us up to our necks in it
Time may change me
But you can’t trace time
Strange fascination, fascinating me
Changes are taking the pace
I’m going through
Ch-ch-ch-ch-Changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Oh, look out you rock ‘n rollers
Ch-ch-ch-ch-changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Pretty soon now you’re gonna get older
Time may change me
But I can’t trace time
I said that time may change me
But I can’t trace time

デビッド・ボウイの変化の先は、常に過去の自分自身があった。それは時という自然の摂理の流れであり、また、彼の擬態から擬態への変化であった。

1980年、「アッシュ・トゥ・アッシュ」では果敢に、自身のヒット曲「スペース・オディティ」のトム少佐との決別を歌っている。そして、彼はロックスターからポップスターへと擬態した。

擬態から擬態への変遷。また、実名の「デビット・ボウイ」から擬態への変遷。もしかすると、「デビット・ボウイ」自体が、彼の本名である「デビッド・ジョーンズ」の擬態であったのかもしれない。そう考えると、デビッド・ジョーンズの擬態した「デビット・ボウイ」は終わりのない再帰性に直面していた、言えるかもしれない。そして、直面した瞬間に常に過去のデビット・ボウイをかなぐり捨てた。

では、なぜ自身を捨てたのにも関わらず、スタイルが生まれたのだろうか。

それは彼自身がジギー・スターダストであることを擬態と明確化し、デビット・ボウイというアイデンティティの上にジギー・スターダストや、シン・ホワイト・デュークを設定したからではないだろうか。

フリードリヒ・シュライアマハーが文体について、「対象的に顕現した個性的法則性」と説明したが、デビッド・ボウイにとっては、自身が常に中心にあり、その対象性として「デビット・ボウイ」があったといえば、彼のスタイルもなんとなく、納得いくような気がした。ファンにとっては、それほどまでに大きな存在であり、また、だからこそ、これほどまでに偉大な音楽家として存在し続けられたのではないかと思う。

でも、そうすると、結局、1990年以降のデビッド・ボウイをもってして、僕は彼のスタイルを認識しているのかもしれない。ジギー・スターダストは「おまけ」として。しかし、僕の一番好きなデビット・ボウイはジギー・スターダストであり、次にベルリン時代だ。そうすると、また説明がつかなくなる。

やっぱり、宇宙人のことは説明できないや笑

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