映画「スティーブ・ジョブズ」

Putting a Ding In The Universe

世の中には2種類の人間がいる。スティーブ・ジョブズと、ジョブズ以外の人間。

その言葉が、一番ふさわしい。つまり、「宇宙を凹ませることができる」人間と、できない人間。

映画「スティーブ・ジョブズ」は否定的な感想が多いが、僕にとっては冒頭から鳥肌ばかり、人生でもトップに入る映画になった。

監督は「トレインスポッティング」や「スラムドッグ・ミリオネア」のダニー・ボイル。脚本は「ソーシャル・ネットワーク」や「マネー・ボール」のアーロン・ソーキン。ジョブズを演じるのはマイケル・ファスベンダーと錚々たる面々である。

作品の性質について

まず、この作品についてはある程度の前置きが必要だろう。

内容自体はウォルター・アイザックソンによって2011年に出版されたジョブズ公認の伝記『スティーブ・ジョブズ』が原作となっており、1984年のApple Macintosh、88年のNeXT Cube、そして98年のiMacの発表の舞台裏を描いた作品だ。

しかしながら内容は、全くをもって史実に忠実ではない。それは脚本を手掛けるアーロン・ソーキンによるものだ。そもそも、彼はお世辞にもテック業界に詳しいとは言えない。彼がかつてFacebookの立ち上げ時期を描いた『ソーシャル・ネットワーク』も、当初否定的な感想が多かったが、これもソーキンが実際の話を叩き台に、『市民ケーン』や『グレート・ギャツビー』に描かれたような「孤独な大富豪」像を描くために、メタファーに昇華しているからである。実際、彼自身、本作についてWiredのインタビューで以下のように語っている

あったとすれば、自分にテクノロジーの教養がないという皮肉だけさ。なぜぼくが、「テック映画の請負人」になってしまったのかはわからない。でも、再びテック業界の人物を描くことに不安はなかった。まったくの別物になることはわかっていたからね。

そういった経緯があることから、

  1. 伝記本の内容がある程度、前提知識として必要である
  2. スティーブ・ジョブズ本人を史実に忠実に描いたわけではない

という2点から、ミーハー層にも、ジョブズ狂にも刺さらないという致命的な脚本になってしまっている点は認めざるをえない。

感想について

(以下は完全なる個人的な解釈であり、ネタバレも含まれます。また深読みすぎると思われるかもしれませんが、本人は満足していますのでそっとしておいて下さい。)

冒頭にも書いたように、この上なく素晴らしい。僕の中では一生残る映画になるだろう。それは2013年のアストン・カッチャーによる『Jobs』とは比べようがない。(あれは単なるファン映画に過ぎない)

劇中では、ジョブズの今や伝説となっているKeynoteスピーチを安易に演技せず飛ばしているのも清々しい。そして、「さすがダニー・ボイル」と言わんばかりの映像美。地面に壁に文字が映しだされたり、随所にサブリミナル的効果が散りばめられていたりする。展開のスピード感はもはやお家芸だ。

また、マイケル・ファスベンダーはこれ以上ないキャスティングだった。X-メンで見せた冷徹な無感情さと、シェイムで見せたリビドーのその両方が遺憾なく発揮されている。また劇中、一度としてジョブズを演じるマイケル・ファスベンダーに違和感を感じなかった。

内容について

本作にはジョブズの他に、5人が重大な役割を果たしている。

リサ

ジョアンナ・ホフマン

ジョン・スカリー

クリスアン・ブレナン

スティーブ・ウォズニアック

の5人だ。また、これら5人が史実に基づいた実際の人間関係を描きながらも、それぞれがメタファーとして機能しているために、1回見ただけでは正直、理解しきれないところがある。

なので、この映画は様々な見方ができる。

ストレートに見ると

スティーブ・ジョブズはいわば神に近い存在であり、この映画の中で唯一「宇宙を凹ませることができる」人物である。

第一幕において、ジョブズは娘のリサを始め、リサの母親のクリスアン・ブレナン、アップルのチームに理不尽に、また人間愛のカケラもなく接する。しかし、ジョブズに限って、そのことは赦される。なぜなら、ジョブズは神であり、彼はその犠牲の上に、世界を変えたからである。

その後もそうだ。ジョン・スカリーからMacintoshの収益性の低さを指摘され、Appleから追い出される。上場企業において、利益が出ない商品は「悪」である。また、スティーブ・ウォズニアックからは、Macintoshで売れ行きが伸びない間、Appleの売上を担っていたAppleⅡの開発者へのねぎらいの言葉を求めるが、拒否する。iMacの発表会の際にもウォズに求められるも拒否する。おそらく、多くの人からは否定されるだろうが、ジョブズにはそれを突き通すことが赦される。なぜなら、ジョブズはそのMacintoshによって「世界を変えた」からである。

また、ジョブズのものさしでは、売れただけでは意味が無い。それは第二幕、NeXTCubeでのリサとの会話に現れている。

リサが「箱の長さが全部同じじゃないのはどうして?」とジョブズに聞く。ジョブズは「知っていることをどうして教えなきゃいけないんだ?」と言うが、多くの人はそのジョブズのものさしをなかなか理解できない。

事実、ジョブズは一時代を築いていたIBMを徹底的に否定している。ジョブズのものさしにおいて素晴らしい製品が、人々の手にわたって初めて、意味が生まれるのだ。

そのことは、日本時間で夜中の2時に、または現地で生で、ジョブズのKeynoteによって世界が変わった瞬間を目の当たりにしている人なら多くを言わずともその説得力がにじみでる。

また、電車を見渡せば、みんなが手にスマホを握っている。作ったのは紛れも無く、スティーブ・ジョブズである。スティーブ・ジョブズなしにはこの世は存在しなかったのである。

劇中終始、ジョブズは「宇宙を凹ませた男」として描かれる。

いわば、宇宙人であり、神でもあり、そのことが、もう一つの見方につながる。

メタファーとして見てみると

前述の5人だが、暗喩と取るならば、まったく個性を排除してみることができ、むしろそのほうが劇中の世界をシンプルにするような感さえある。

リサ

ジョアンナ・ホフマン

ジョン・スカリー

クリスアン・ブレナン

スティーブ・ウォズニアック

の5人だが、

リサはこの映画の中ではまさに、人類として描かれている。結果的には、ジョブズは大衆(リサ)を愛するのか否か。といったところであろう。

ジョン・スカリーはジョブズを評価する民衆あり、ある時はジョブズを否定し、ある時はジョブズを肯定する。それはまさに、市場においてのジョブズの評価そのものと言えるだろう。

クリスアン・ブレナンはテクノロジーのもたらす未来を理解できない民衆の代表で、またそういった人間はテクノロジーが与えられる人間(リサ)を利用して様々な非テクノロジー論を展開する。。

スティーブ・ウォズニアックはテクノロジーそのもの。専門家には愛されるが、人類全員にはなかなか愛されない。象徴的なのが、第二幕のリサのセリフ。「大きくなったね」とリサ(人類)に語りかけるが、リサは「あなたの顔は記憶に無い」という。つまり、テクノロジーが多くの人の手に渡ったとしても、人はテクノロジーを認識しているわけではないのである。

ジョブズはそんなウォズニアックを小澤征爾の言葉になぞらえ、「自分はオーケストラを演奏している。しかし、お前はただ、楽器を演奏しているだけだ」と一蹴。しかし、ジョブズが愛してやまないのも、ウォズニアックそのものが示しだす、テクノロジーである。

そして、それらの経緯をジョアンナ・ホフマンの目を通して、僕たちはジョブズを目のあたりにすることになる。ジョアンナ・ホフマンはジョブズの「現実歪曲フィールド」の影響を唯一受けない存在だ。

リサ(大衆)

ジョン・スカリー(市場の評価)

クリスアン・ブレナン(アンチテクノロジー)

スティーブ・ウォズニアック(テクノロジー)

ジョアンナ・ホフマン(ガイド役)

といった構図である。

そして、基本として、ジョブズと人々(リサ)との関係性を描いている点は変わらない。

第一幕、1984年のApple Macintoshの舞台裏の場面で、リサがジョブズに与えられたMacintoshに絵を書く。あの時こそが、人類がジョブズによって与えられた「コンピューター」と一体になった瞬間である。

それに対して、2つの思惑が動く。アンチテクノロジストは、コンピューターよりも「生きるお金をくれ」という。ジョブズの評価は儲かるコンピューターによって、上がっていく。そういった世の動きをよそに、ジョブズは「Macintosh」というコンピューターを世に送り出し、世の中を変えることになる。

しかし、第二幕、都合よく資本主義者に食われたジョブズは、新たな技術で「宇宙を凹ませ」表舞台へ帰ろうとする。その舞台裏でウォークマンで「青春の日々(both sides now)」を繰り返し聞くリサのセリフが鮮烈だ。同じ曲でも1回目の2回目で聞こえ方が違うというのだ。

1回目は「女の子が歌ってる」2回目は「後悔している」という言うのだ。というのも、初めて宇宙を凹ました1984年、ジョブズは無心だった。そして、2回目の1988年NeXTCubeで、ジョブズは後悔している。リサとの関係を絶ったことを後悔するのだ。それはAppleという、多くの人々へテクノロジーを伝える場所を失った後悔とも言える。

この「青春の日々(both sides now)」は実際の伝記にも出てきており、ⅡのP.203でジョブズの実際の言葉ともに読むことができる 。

そして、第三幕のiMacで、ジョブズはようやくリサとの関係を修復する。ジョブズがリサに寄り添い、リサがジョブズに寄り添った結果であった。しかし、それでも、ジョブズは両手を上げて行くわけではない。自身が見ていない間に別の物によって毒されることを嫌うのだ。まさに、ジョブズが見ていない間にリサにお金を無心していたアンディーはジョブズ不在時のAppleそのものである。

最後にジョブズはリサを受け入れ、前に進んでいく。

そして、リサに直接語りかける「ポケットに1000曲持ち運べるようにしてあげよう」と。あの瞬間、ジョブズは、自分自身ではなく、リサ、つまり僕達を見てくれるようになった。

その後、ジョブズはiPhoneで最も大きな凹みを宇宙にもたらすことになる。

最後に

ラストシーンで、ジョブズがiMacのKeynoteに向かっていくなか、どんどん姿がぼやけていく。一度振り返り、こちらに微笑む。その瞬間に、ウルっと来てしまった。

やっぱり、僕の原点にはジョブズがいた。僕は、ジョブズ以降の世界に生きてきたわけであり、ジョブズが残した製品群がジョブズの贈り物のように感じるのだ。それは、死んだ祖父が自分に残してくれた遺品のように感傷的になってしまう。

エンドロールはボブ・ディランの『The Times They Are A-Changin’』。1984年のMacintoshの発表会の冒頭、株主への説明会の際に、ジョブズ自身が引用した曲である。

冒頭に戻るが、世の中には2種類の人間がいる。スティーブ・ジョブズと、ジョブズ以外の人間だ。

つまり、「宇宙を凹ませることができる」人間と、できない人間。ジョブズがいない今、誰が宇宙を凹ませられるのだろうか。

そこに今度は自分自身が宇宙を凹ませたいという願望がこみ上げてくる。

なんだか、最後は感情がうずまいて分からなくなってきていたが、僕は宇宙を凹ませたい。

Putting a Ding In The Universe!

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