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新しい情報と、それに対する様々な人の見解などを集めて精査する。 それをしていると一日が終わってしまう。ついていくのがやっと。 読もうと思って読めていない記事が溜まっている。 私はどうでもいい話をするtwitterがすきで、大事な話をするときは様々な方面になるべく配慮した上で、ネガティブなことはできれば言いたくない。 これはなにかの呪いなのかもしれないとも思うけど、まだやっぱりそれを曲げられなくて、それについても考えなきゃいけないと思っている。色んな強い言葉に影響を受けてしまって、自分の考えがまとまらない。 とにかく今、なにをツイートしようとしてもネガティブになってしまいそうで、結果、黙ってしまっている。 自分が感じていることを整理する意味でも、文章を書くことはできる気がした。ここなら整理されていない言葉も、書いていいと思える。 私は今疲れてしまっていて、twitterを掃き溜めにすることもはばかられて、それで苦しくなっているかもしれない。なにかを吐き出すことは自分のためにもなるかもしれない。 何も言わないより、言った方がいい状況なのは、確かにそうだと思う。届いてない誰かにどうにかして届けたい、という気持ちもある。それと同時に、自分の考えに自信がない、というところもある。

ノート

ノート 自由帳、キャンパスノート、スケッチブック。 らくがきや、描きかけの漫画や、シーンの断片のようなものが書いてあり、だいたい、ページが半端に余っています。たぶん、小学生か、中学生くらいの頃からのものが、何冊も、残っています。たまにパラパラと開いてみると、つい、読みふけってしまう。そして、この子たちのお話を、ちゃんとかたちにしてあげたいような気持ちになってくる。 お話というか、人物を考えて、その人はこの人と友だちで、こんな会話をする、みたいなことを考えたりすることが、結構好きみたいです。もっと昔は、漫画家になりたかったのでお話を考えていたけれど、ちゃんとお話を完結させることは、私にはできなかった。だけどお話「のようなもの」を、シーンの断片を、考えるのが好きで、だから色んなノートに、同じ人が何人も出てきて台詞を言っている。 断片ばかりができるので、やっぱりそれを集めてどうにか一つにできないかと、考える。 それで、学校のとあるクラスの一年間のお話として練り直そうとしてみたけれど、ぜんぜんまとまらず、むしろキャラクターが増え、断片も増え、結局まだなにもかたちにはなっていません。だし、かたちにしてみようとか考えてみるとあまりにもつまらないお話ばかりで恥ずかしくなるので、うーん、たぶん、しないとおもう。かたちにしてあげたいという気持ちは、おもしろいからとか、そういうんじゃなく、ただただ、ずーっとそのノートの中にあり、何度も読み返したことにより生まれた愛着のためなのである、きっと。 捨てられない沢山のノートの中には、沢山のキャラクターと、お話の断片が、とりとめもなく描いてあるわけです。 愛着だけはとにかくある。とても捨てがたいけれど、捨てたらすっきりするだろう。

佐野洋子『ふつうがえらい』

佐野洋子『ふつうがえらい』 佐野洋子さんの文庫本を3冊持っています。『ふつうがえらい』『友だちは無駄である』『がんばりません』。 私は一時期、古本屋でやたらと本を買っていて、でも活字が苦手なので全然読めなくて、結局読んでいない本がとにかくたくさんある。もちろん読みたくて買うんだけど、本を開いて字を追っていると、すぐ疲れたり飽きたり、別のことを考えてしまうのです。そうしているうちに、買ったときの興味はどこかへ行ってしまって、本は忘れ去られてしまうのだ。 佐野洋子さんの本も、『ふつうがえらい』以外の2冊はほとんど読んでいないとおもう。 『ふつうがえらい』も、たぶん、途中までしか読んでいないんだけど、でも、その途中までを何度も読んでいるのが、この本です。 『ふつうがえらい』は、エッセイ集で、短いエッセイがいくつも入っている。家族の話とか、食べ物の話とか、猫の話とか、友人の話。あっけらかんとして嘘がなく、裏も表も、強さも弱さもあり、おかしくて、愛がある。私は読んでいて、すぐ、泣きそうになってしまう。うまく言えないけれど、私にとってすごく大切なことが書いてあることに驚いてしまう。 日々を過ごすのがつらいとき、心が乱れているとき、どうにもならない気持ちのとき、この本を鞄につっこんで、出かけます。それで、電車の中で、開いて読む。そうすると、不思議なことに、自分にとって大切な気持ちを思い出させてくれる。そういう、私の心を整えてくれる本なので、これは私にとってとても大事な本だとおもう。