エクリチュールとしてのプログラミング

哲学はエクリチュール(書き言葉)ということにこだわって来た。エクリチュールとは、パロール(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つである。

Wikipediaによれば、「現代において、エクリチュールとパロールの二項対立とその差異に注目したのは、フランス現代思想家のジャック・デリダ」とある。古くからは、ソクラテスは書籍を残さず、対話ということに注力したことも、このエクリチュールとパロールというのものの対立に大きな示唆を与える。

プログラミングというものは、記述をしなければならず、エクリチュールと呼べる。ウェブサービスは記述することでしか実現しない。このことは、どの様な意味があるだろうか。

(音声認識が近年出てきて、音声でも機械と意思疎通ができる世界も、誕生しつつある。この未来像については、また別の機会があれば書いてみたい)

話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)

話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)、フランス現代思想家のジャック・デリダはこの2つの違いに注目した。そしてその思想は脱構築のための手立てとなっていく。

デリダいわく。

パロールはエクリチュールに先立って優越するといわれるが、その劣位のエクリチュールが逆にパロールを侵食している事態をデリダは暴き出す。

プログラミングに例えてみる。

要件定義はパロールである。こんなシステムにしてほしいとか、企画概要であれ、たいていは話し言葉で、それをベースにエンジニアが要件に落としこんでいく。

これが、「パロール(要望)はエクリチュール(プラグラム)に先立って優越する」という風に理解しても良いのではないだろうか。

しかし、実際にはプログラムが完成して、サービスができると、希望していた仕様とイメージが異なることがある。動くものをみて、新しいイメージが湧く、そんなこともある。

それが、「その劣位のエクリチュール(プログラム)が逆にパロール(要望)を侵食している」ということだ。

脱構築とは

脱構築(だつこうちく、: déconstruction、: deconstruction)は、「静止的な構造を前提とし、それを想起的に発見しうる」というプラトン以来の哲学の伝統的ドグマに対して、「我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成している」とする、20世紀哲学の全体に及ぶ大きな潮流のこと。

わかりやすく言えば、脱構築とは、AかBかという対立から抜け出す手法のことだ。そして、脱構築は、ある事柄を相対化したりして、解体(わかりやすくして)をして矛盾を暴きだしていくことで達成される。

またプログラミングに例えると、「エンジニアが要望を聞き、それを実装して、要望の矛盾を暴きだしていくことで、新たな要望が出てくる」ということではないだろうか。エンジニアなら、そんな経験あるよね。

エクリチュール(プログラミング)による脱構築

実は、僕が言いたいことは、2点ある。

1点目は、僕らはプログラミング能力を得たことによって、パロール本位の世界から抜け出ることができるようになったということである。そして、2点目は、要望とプログラミングの二項対立を崩していく脱構築というプロセスが大事ということだ。

プログラムという手段を持つ以前は、パロールというコミュニケーションが強いものが社会を定義していた。しかし、ウェブサービスやアプリケーションはプログラムを通じてしか実現しない。こうした社会できたことによって、プログラムを書くことで、社会を定義することができるようになったのでは無いだろうか。

いまは、Google無しの社会は想定できないし、政治家の失言もすぐに広まるようになってしまった。現代社会において、プログラミングの力は強力だ。この力を持ってパロール本位の社会から、「どのように」抜け出ていくか、それが現代社会の課題のように思う。

また、それを実行していく上で、二項対立を崩す脱構築のプロセスを避けてはいけない。その先に、固定化された世界を超えて、新たな地平線があるのだろう。

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