「合っている演奏」と言葉は興味深いですね。自分はこの言葉、そこにはすでに「答え」が用意されており、奏者は「楽譜」を「問題編」として、それにふさわしい「回答」をするものとみなしている――と理解しました。…
Mark Yu -taipeimonochrome
51

形式の向こう。何かと触れ合う臨場感があらわれてくる「場」が。

形式、流儀は、後にできる足跡みたいに派生したもの。それよりもその先の先のまさに先端が触れる臨場感。『ココ」に何を見る?何を聞く?何を感じる?現場、それは「過去、今、未来」という時制の幻想が効かないTimelessのみが流れる。AIも感性工学も足跡をなぞればいい。アルゴリズムも私の先行きに関し予想屋と何の変わりもなく、「いまという臨場感はunknown」せいぜい私の背中から見える足跡を母体として産み出すしかないのです。

未完成を受容する感性だけが、Timelessの流れに浮かぶことができます。

水の戯れをモデルにして話すと、ラベルの「美の追求」があってこその曲だが、噴水を通して観る水の動きという日常観念をあのリズムの細分化でよく考えぬいてありますが、シミュレーションする中で、聞かせようという意図や小技が見え隠れしてしまい「場」に溶けて「流れ出すような抜け」が感じられません。この抜けて来ないという感覚は、「すっきり感の欠如」として、こもったまま、内に輝きを秘めたまま、決してその輝きを放つことはないのです。頑なにその「美の完成度を追求する」という姿勢そのものに「自縛されてしまっている」ように感じるのは、私だけなのかも知れません。

「TimelessにJust Tuneした未完成なままの流れ」では、

完璧を目指すという思考が追求していく「DeTuneしている形式美」も世の中に素晴らしいものはたくさん有ります。

それはそれとして、すっきり感のある、そのまま「その場に寄り添う」というだけで「ふと我を忘れていく」忘我のモードがあります。ここでは私の主体性は消え、そこへの引っ掛かりを失った思考がハーモニーの傍らで、「浮かんでは消えていく」を繰り返しています。そして気がつくと思考に見えていたもの自身が、ハーモニーそのものへと変容していきながら、この流れに溶け込んでしまい、いま「ひとつの全体そのもの」としてここにあります。そしてここには、いわゆる形式などありません。形式の向こう側と表現されるところ、そのものだからかも知れません。

Thank you for reading. ありがとう/gino

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.