泣いて馬謖を斬る

判事、今押したボタンはなんですか?

「あぁ、死刑執行のボタンだよ」

眼の前にいる温和そうな人間はこともなげにそう言った。

打ち合わせの最中に押されたボタン。嫌な予感がして聞いてみるとやはり目の前で思っていた通りのことが行われていた。

だって、被告人は常人じゃないんですよ?

世間を震わす事件を犯した被告人に対する権限が、眼の前にいる彼に一任されていることはニュースを見たものならば誰もが知っているはずだ。彼は世間から非難を一身に浴びる行為。死刑執行命令をたった今こともなげにやってのけたのだ。自分が驚いた最大の理由はこの重大な決断が始業開始後5分で速やかに行われたということにある。

「だって彼も人間だろう。そこに常人だとかそうじゃないとかあるのかね。人間らしく生きる。それが人間の本懐じゃないか」

驚くほどに冷静に判事は言った。きっとそれは彼が自分に課した罪なのだろう。好き勝手に言うのは自由だ。けれど誰かがその責任を負わなくてはならない。

「犯罪における原因は犯罪者を取り巻くすべての人間が負っている。けれど周りの人間をすべて裁くことなんて不可能だ。仕方が無いでは片付けられない。けれどそれを仕方ないと断ずる人間もこれまた必要なんだよ」

半分は理解できたがもう半分は理解できなかった。善と悪、2つの相対する言葉は時に選ぶことを拒否したくなる性質を持っている。

「全ては人間が勝手に決めたルールだ。そしてそのルールは良心という名の不確定要素で覆われている。誰かがやらなくてはならない。責任を持たなくてはいけない。それこそが人間が生きていく中で背負っていく業だと思うのだよ。今回私はついてなかった。だって私は彼のことを生死を分かつ程には知らないのだから。きっと私は前世で相当の大罪を犯したのだと思うよ」

判事はいつもと全く同じように温和だった。打ち合わせはこともなく進んでいく。一つだけ確かなことは、彼はボタンを押したことを決して後悔していないことだ。一件の強盗事件に対する罪状確認はいつもよりも少しだけ長く、三時間かけて終了した。

今日は特別な日だった。判事はいつもより多くこめかみを撫で、腕時計をやたらと気にし、いつもよりもほんの少しだけ疲れているように見えた。

こんな時に相応しいちょうど良い故事があったように思うのだけれど、残念ながら思い出せない。