Ogyu Sorai (荻生徂徠, 1666–1728), Tominaga Nakamoto (富永仲基, 1715–1746)【Japanese great thinkers】

【reference, citations】
荻生徂徠 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
▼▼
荻生徂徠(おぎゅう そらい, 1666–1728)は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
父は江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉の侍医だった荻生景明。
弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓。

▶概要
朱子学や伊藤仁斎 (1627–1705) の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。
古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。

▶生涯
江戸に生まれる。
幼くして学問に優れ、林春斎や林鳳岡に学んだ。
しかし1679年(延宝7年)、当時 館林藩主だった徳川綱吉の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる蟄居に伴い、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現 千葉県茂原市)に移った。
ここで主要な漢籍や和書、仏典を 13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。
この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。
1692年(元禄5年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。
芝 増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている。

1696年(元禄9年)、将軍 綱吉 側近で幕府側用人 柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)に抜擢され、吉保の領地の川越で 15人扶持を支給されて彼に仕えた。

1709年(宝永6年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て、日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾 蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。
やがて徂徠派という一つの学派(蘐園学派)を形成するに至る。

1722年(享保7年)以後は 8代将軍 徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った。
追放刑の不可を述べ、これに代えて自由刑とすることを述べた。
豪胆で自ら恃むところ多く、支那趣味を持っており、中国語にも堪能だったという。
多くの門弟を育てて1728年(享保13年)に死去、享年63。

▶徂徠学の成立
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派。日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。
支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。

▶経世思想
古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。
徂徠は農本主義的な思想を説き、武士や町人が帰農することで、市場経済化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。

徂徠は柳沢吉保や第8代将軍 徳川吉宗への政治的助言者でもあった。
吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。
人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。
これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。
服部南郭をはじめ、徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水 弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。
兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。
卓越した『孫子』の注釈書と言われている。

▶後世への影響
直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。
大坂の町人が運営した私塾である懐徳堂では朱子学者の中井竹山などが徂徠学を批判した。
その中からは、富永仲基のような優れた文献学者が輩出されていった。
また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。
徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。
▲▲

富永仲基 — Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA
▼▼
富永仲基(とみなが なかもと, 1715–1746)は、江戸時代大坂の哲学者、町人学者、思想史家。
懐徳堂の学風である合理主義、無鬼神論(鬼=幽霊や妖怪は存在しないという考え方)の立場に立ち、儒教、仏教、神道を実証的に研究した。
彼の学問は、思想の展開と歴史・言語・民俗との関連に注目した独創的なものといわれている。

▶経歴
大坂 北浜の醤油醸造業・漬物商を営む家に、懐徳堂の 5同志の 1人 富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の 3男として生まれた。
15歳ころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主 三宅石庵に儒学を学ぶ。
その後、田中桐江のもとで詩文を修め、また 20歳のころ家を出て宇治の黄檗山萬福寺で一切経の校合に従事し、黄檗宗の仏典の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった。
1738年(元文3年)、24歳で、『翁の文』を著述。
1745年(延享2年)、仏教思想の批判的研究書『出定後語』を刊行し、独特の大乗非仏説(法華経、般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)を唱えた。
翌年、32歳で死去した。

富永の説で、特筆すべき第一は、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという「加上」(かじょう)の考え方にあり、その根底に「善」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にある(『出定後語』)。
この説は本居宣長、後には内藤湖南や村上専精により評価された。

また、思想に現れる民族性を「くせ」とよんでこれに着目。
インドは「幻」で空想的・神秘的、中国は「文」で修辞的で誇張する、日本は「絞」で、現代的な意味には、正直と言った意味である、と述べている(『出定後語』巻の上、神通 第八)。
それぞれの文化を相対化し比較観察したことは、文化人類学的発想の先取りと指摘されている。
さらに、宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、デイヴィッド・ヒュームやフリードリヒ・ニーチェに比する見方もある。

ほかに、古代中国の音楽から日本の雅楽に至るまでの音律の変遷をたどった、漢文による 20歳代の時の著作『楽律考』があることが 1937年にわかり、写本の影印本や現代日本語訳が出版されている。

弟 東華は仲基について、病弱であり、また清潔で言葉少なく穏やかだが短気であった、著作を多く記したが失われた、と語る。
▲▲

--

--