韓国映画の「哭声」を先日観に行った。

ま、よくわからない。何がかといえば、誰が〈何〉だったのか分からない。つまり登場人物のプロフィールの真実がわからない。それ以外のことは、むしろわかりやすかった。怖いということも疑いようがなかった。

祈祷師と呼ばれる人が二人出てくる。格好つけている男と、國村隼。格好つけている祈祷師の身体の動きの切れはとてもよかった。たぶん、ダンスの経験者だろう。この映画のなかで、体で魅せる役は、正気の人では彼だけだった。他の人たちは、どことなく不健康そうだ――特に大人。とはいっても、あの村で溌剌としていられたらむしろ変だが。

格好つけている祈祷師の、悪霊をはらうための除霊儀式だけが、まるで祭りのように華やかで賑やかだった。何かに閉じ込められたような田舎の村で、年に一度の大祭を迎える気持ちはこういうものかもしれんなあ。儀式のシーンの隅に牛が繋がれていたから、とっさに「地獄の黙示録」のラストシーンの水牛を思い出した。このシーンの雰囲気はあれに似ている。

よく分からないといえば、もうひとつ。なぜ悪霊はあのようなことをしたがるのか、ということも分からない。が、悪霊ってそういうものでしょ、と片づけてしまっても別にいいようにも思う。動機や理由は悪霊の本質に根ざしていて、ただそれだけ。解明する必要を感じぬ。そもそも、悪霊という呼び方が本質主義だ。シャーマニズムは「霊」の本質を認める世界観なのだろうか。よく知らない。

「来て、触ってもみよ。このとおり、肉も骨もある。まさに私だ」。國村隼が聖書から引用する。これはたぶんイエスが復活の直後に言った言葉だろう。肉も骨もあるから「自分は霊ではない」。そう言いたかったのだろう。了解。

ま、よく分からない。

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.