ダンスと評論と。

個人的なアートと受け手と評論の関係の考察

Kyoko Ogushi
3 min readMar 25, 2014

今月上旬、とあるダンス公演をきっかけにして、ダンス関係者が次々にそれぞれのダンス論や批評家論や、評論とは論が活発にTLに流れて来ていて、中々面白かった。私はただの一ファンだから、批評家・評論家諸氏とはスタンスが違うけど、私なりの、個人的で勝手なアートと受け手と評論の関係を考察してみた。

基本、私はファンでしかないから、アート作品に触れた時は、好きか嫌いかだけを言うようにしてる。私はアートと観る者の関係は「価値観の共有」だと思ってるから、価値観を共有出来れば「凄い」「楽しい」「面白い」となるし、価値観が合わなければ「理解出来ない」「ツマラナイ」「見たくない」となる。

だから、その「価値観」を自分で受け止められなかった時は、私は「この作家とは気が合わないわ〜」と思うに止める。他人と価値観が合わない事は、日常でも良くある事だから、別に良いのである。ただ、仕事で批評・評論をしている方々は、価値観に合わないものも評価しなければならないから大変だと思う。

しかしだからと言って、自分と価値観が合わない作品に出会い、価値観を共有出来なかった事を、作家のせいにして批判するのは違うと思う。何故相手の価値観が自分と違うのか、その差について考察するのは有意義だと思うけど。つまり、私が勝手に思うに、批評や評論って作品の「価値観」が何なのかを解いて言葉で説明する作業なのではなかろうか。

大勢の人に愛されている作品は、つまるところ、その「価値観」が多くの人と共有されやすい、或いは、作品に多様な価値観を内包させる事に成功しているから、多様な価値観の持ち主達に共有感を抱かせられる。

評論とは、その「価値観」が何なのか、その何が優れているのかを紐解く作業なのではないかと思う。

その「価値観」とは、アートならば思想、発想、嗜好から、色彩、形の選択、方法論など。ダンスもほぼ同じだけど、それに身体性が加わる。何に感動するのか、何を美しく思うのかは、個人個人の人格形成上で、どの価値観を「良し」と教えられて来たのかが大きく左右してると思う。

だから、育った環境が違えば、それこそ何を「良し」と習うのかは、千差万別な訳である。日本国内だって、関東と関西とで色彩感覚などの価値観が違うのに、それこそ、キリスト教社会とイスラム教社会とユダヤ教社会と仏教社会と儒教社会と八百万の神社会とは、それぞれ教わった価値観は全く違っていて当たり前なんである。

そんな様々な社会・価値観の中にあっても、普遍的で共通する誰でも共有出来得る価値観は何かを見つけ出し、より多くの人と共有出来る形で提示しよう、とするのが優れたアーティストなのだと私は思う。

だから私が思う評論は、その作品の価値観が、元々どう「良し」とされて来た価値観から受け継がれて来た/反論なのかを見極め、その従来の価値観を受けて、その作品がどんな発展性があるのかないのか、優れた提示になっているのか、この時代でどれだけ共有され得るのかを論ずる事なのではないかと思う。

だから、評論家がどうあるべきか、はそれぞれの方の考え方で良いと思うのだけど、最低でも、職業的批評家・評論家を名乗るのなら、価値観が合わなかった作品であっても、公けで批判するなら、その作品の価値観を読み解く労を惜しんではいけないのではないかと思う。世の中、自分の価値観と合う作品・アーティストばかりではないのだから、何故自分が受け入れられなかったのかは、作家の文化的背景、自分の背景含めてもっと深く考察してほしいものである。

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Kyoko Ogushi

都内の会社員です。シアトルに本社があるゲッティイメージズという写真関係の会社で、なんでも屋的な仕事をしています。 主に映画・バレエ・SF関係のツイートをしています。