書評『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』

~知性と感性が融合する哲学~

Hana Caitriona
Feb 16, 2022
開いた本のうえに赤いバラがのせられている
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フランスは多くの哲学者を生んだ豊かな思想をもつ国である。哲学好きの私はフランス哲学の深さや面白さに惹かれていた。そこで手に取ったのが『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』である。『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』は、ユダヤ系女性フランス人哲学者シモーヌ・ヴェイユが書き残したエッセイを集めたアンソロジーである。この『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』を読む、1ページ目から発見と感動の連続であった。本稿では、このアンソロジーの中から私の心に残った部分を3つ取り上げる。

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』は編訳者・今村純子の素晴らしい前書きで始まる。そこには、ヴェイユという女性の生涯と生き様について、無駄のない美しい文章で綴られていた。

その人に一度も出会ったことなどなくとも、否、その人に出会う以上に、その人の[表現]を通して、わたしたちはその人の魂そのものに触れうる。(今村純子『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出書房新社 2018 p.9)

どんな文章を読んでもその人の魂そのものに触れられるわけではない。内容や書き手によっては、その書き手の考え方や性格のほんの一部しか見ることのできない文章もある。今村はこの一文によって、ヴェイユの表現がいかに読者の胸に届くものであるかを伝えている。

そして、今村の言葉に間違いなく、前書きのあとに続くヴェイユのエッセイは、ヴェイユの魂が訴えかけてくる。それは、ヴェイユの誠実さゆえだと私は思う。最近、私はなぜ哲学を学ぶのか、私にとって哲学とは何なのか、もやもやとした雲を心に抱えていた。しかし、この一文に出会ったとき私がどのように生きたいのか明確に直感された。私は今村やヴェイユのように魂をさらけだす哲学や文章を書きたい。私は哲学することは誠実であることだと思っている。人生が私たちに投げかけてくる問いに誠実に向き合っていく営みである。魂をさらけ出す文章を書くことのできる女性になること、それが哲学における私の目標である。

次に、このアンソロジーに収められている「『グリム童話』における六羽の白鳥の物語」から、心に残った一文を取り上げたい。六羽の白鳥の物語では、魔女の継母が王子6人を白鳥に変えてしまう。そして、王子の妹は王子たちにかかった魔法を解くため、六年間だれとも口を利かずにアネモネのシャツを編むことになる。妹は六年間口を利かずにシャツを編み続け、最後には王子たちをもとの姿に戻す、という物語である。ヴェイユはこの物語を哲学的に読み解く。

努力なくして何もなしえないとはいえ、妹の徳は妹その人のうちにある。(今村純子『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出書房新社2018 p.26)

「妹」が素晴らしいのは、王子たちを救ったからだろうか、それとも六年間誰とも口を利かずにシャツを編むという試練に耐え努力したからだろうか。人間の価値はどこにあるのか、ヴェイユはこの大きな問いに対して、その人自身の中にある、と答えている。どんなに素晴らしい心の持ち主でも何もしないでいては意味がないように思われる。しかし、その素晴らしい心をもって素晴らしいことをしたとしても、それはただ結果にすぎない。素晴らしい心の持ち主でも失敗することや結果が伴わないこともある。しかし、実力主義、結果主義の現代では、結果や行動が伴わなければ全て意味のないものとして、なにか大切なものが捨てられてしまう、そんな感じを受けてならない。そんな私の常日頃からの違和感を見事に言葉にして論じて見せたそんな一文である。確かに、この「妹」は徳があるから行動できた。しかし、この「妹」の徳は、彼女の努力でも、行動でも、結果でもなく、彼女自身にあるものなのだ。

哲学とは、ただ論理を用いて真理を探究することではない。ヴェイユはそれをよく理解した女性だったといえよう。純粋に物理的、理性的な観点から論じれば、人間に特別の価値や徳などないということは容易である。しかし、それでも私たち皆、感覚的に人間になにか特別の価値を感じる。ヴェイユの感性とその詩学的な表現は、合理的な論考になりがちな哲学の世界に一石を投じている。

最後に、「人格と聖なるもの」から、

人格は、この規範を提供するものではない。悪が課され、心の奥底から発せられる、驚きに満ちた苦渋の叫びは、人格的なものではない。(中略)この叫びはつねに非人格的な抗議を発する。(中略) 聖なるものとは、人格であるどころか、人間の内なる非人格的なるものである。(今村純子『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出書房新社2018 p.320)

人間の「核」とは何であろう? 人間に悪がなされてはならない領域が存在するのだろうか?それは現代では「人権」という奇妙な概念に集約され、「当たり前」となった。しかし、人間に持って生まれる権利などあるのだろうか。わたしはそんな作り物の「人権」概念を信じない。自然の中に生まれた私たちに生まれながらにして「権利」などないのだから。それは「社会」のなかで構想された概念にすぎない。では、人権がないのなら、人を傷つけてもいいのだろうか。「人権」は概念にすぎないが、それでも人間が傷つけらえる瞬間を目の当たりにすると、人間には傷つけられてはいけない領域があるのではないかと感じる。「人権」ではない、もっと明確な何かがあるのではないか。私のこの疑問に答えて見せたのがヴェイユの論考である。

論理と感性を表現によって融合させる、それがヴェイユの哲学なのではないだろうか。『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』を通して、私は哲学の新たなありかたを発見することができた。これからの大学の学びの中で、彼女の論をさらに深め発展させていけたらと思う。学問的な哲学書を読んで、何か物足りないと思った人に勧めたい一冊である。ヴェイユの表現が論理だけではすくいきれない何かを伝えてくれるだろう。

引用文献

今村純子『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出書房新社2018

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Hana Caitriona

A Japanese/Irish girl who studies philosophy. Loves to write bad (really bad) poetry. 早稲田で政治哲学を学ぶ大学生。 学生団体「早稲田哲学カフェ」を運営。