教養・リベラルアーツによるズームイン・ズームアウト

瀧本哲史著「戦略がすべて」読了。ビジネス市場、芸能界、労働市場、教育現場、国家事業、ネット社会など、様々な諸問題を”戦略視点”で解説。とくに、本書内で「心地よい情報環境の危険」に触れて、改めて身が引き締まる思いになった。

教養とはパスポートである。教養ブームは、情報消費に関する現在の大きな流れへのカウンターとして出てきたものではないか。(中略)人々は自分の心地よい情報、人間関係を再確認する情報環境に回帰しつつある。自分の読みたい新聞を読み、聞きたい人の意見を聞き、見たいテレビを見る。その結果起きたことは、「蛸壺型」の社会認識の広がりである。心地良い情報、意見の合う人間としか付き合わないために、「私の周りはみんな私と同じ意見だ」「私の意見は間違っていない」と思ってしまうのだ。
なぜ今、教養が問題になるのか。教養の一つの機能は、アラン・ブルームの言葉を借りれば「他の考え方が成り立ちうることを知ること」にある。つまり、情報の爆発とその防衛による蛸壺化を経て、失われた普遍性を取り戻そうとする動き、これはすなわち「教養」ブームだと考えている。
現代の資本主義社会では、全てがシステム化され、分業により効率化が極限まで進み、個人がコモディティ化する。この中で、社会のつながりというものを再構築するのに必要になってくるのは、普遍性を持つ様々な考え方について思索をめぐらすことだ。(中略)常にイノベーションを作り出すことが資本主義の宿命だとして、その源泉はどこにあるのかと言えば、それも教養にある。多くのイノベーションは、他の異なる考え方を組み合わせることによって生まれる。そうなると、イノベーションを起こすための隠れた武器庫は、自分の知らない思考様式、学問体系、先端的な知識にならざるを得ない。

”自分と異なる思想に触れること”。他の考え方を許容したり一旦咀嚼したりすること、非常に重要な視点。また、心地よい領域を専門性と捉えるならば、それを補完するに余りあるジェネラリストとしての素養を身に付けることも同時に追求していく必要がある。

と考えていくと、目下、自身にとって心地よい情報環境を整備してくれるキュレーションサービスの未来は、この辺りに一つの解が存在していそう。自身の専門性や興味領域と”相性の良い”領域を徐々に拡張してくれる寄り添う力。ある程度の異常値を認める仕掛けというか、キュレーションという概念を掘り下げていくと、この先面白いことが実現できそう。