翻訳者の道具と身体の使い方
腱鞘炎とマウス、アレクサンダーテクニークとキーボード
翻訳のお仕事を始めて3年目。まだまだ駆け出しですが、翻訳会社のシニアトランスレーターによる評価は徐々に上昇、指名のお仕事もじわっと増えたこの夏はなんだか階段をちょっと上った感があり、はりきって仕事してました。オリンピック関連のお仕事もあって、気分もノリノリ。
はじめての腱鞘炎
そんな時、右手首が痛くなり、最初はマウスを操作するのがつらく、やがてはちょっとした日常動作にも支障が出てきました。私の右手ってこんなにがんばってたのか、と再認識しつつ、左手でできるところは左手で、両手でできることはなるべく両手で、自分ひとりで無理なら家族に、と右手が使えないことを意識する場面が日常的に増えてきました。
これってもしかして腱鞘炎?とネットで調べると、だんだん自分が重病人のような気に。というか、こんなにマウスやタイピングがつらいのに翻訳の仕事ってできるの?と暗い気持ちになった時、ふと思い出しました。たしか『通訳翻訳ジャーナル』に「翻訳者・通訳者のための健康維持法」って特集があって、そこにたしか音声入力でお仕事する話があったはず…。
そこで、『通訳翻訳ジャーナル2015年冬号』54ページの「RSIの症状と対処法」という記事を読みなおしてみました。この記事を書いた杉本優という翻訳者さんは、仕事開始から3年目で右腕の痛みに悩まされたそう。コンピューター作業が原因の上腕骨外側上顆炎(通称テニス肘)と診断されてからの治療は投薬にテニス肘バンド装着、ストレッチ、患部マッサージ、低周波治療、ステロイド、外科手術、となんとも壮絶。音声入力には「ドラゴンスピーチ」という優秀なソフトがあることがわかったものの、これだけ治療してもすっきり治らないことがあるのか、とさらに暗い気分になってしまいました。
そんななか胸に響いたのは、「鎮痛剤を飲んでまで働かない」という言葉でした。
鎮痛剤が必要なほど辛いなら、それは体が休みを必要としているサインです。鎮痛剤を服用すると痛みがマスクされて体にどれくらい負荷がかかっているのか自覚できなくなり、その状態で仕事を続けるとさらにダメージが大きくなります。辛くて薬を飲んだときは仕事もやめて、体を十分にリラックスさせることが重要です。(『通訳翻訳ジャーナル2015年冬号』p.56)
今年は特に夏休みもとらなかったし、思い切って一ヶ月くらい仕事を控えてもいいかも、その間に身体のメンテナンスするのが長期的にはいいかも、とぐっと仕事を減らして、家事もなるべく家族にお願いして、まずは整形外科へ。
最初に行った医院では、痛みと炎症を抑える湿布を処方されました。腱鞘炎とは断言されず、まずはこれを使い終えるまで様子見を、とのこと。そして私の手首の骨は痛みを感じやすい配置になっているからそのせいかも、相撲の力士なら骨を切ることもあるよ、となんともおそろしい説明を受けました。
その次は、全身のバランスを見てもらうといいかもとカイロプラクティックへ。骨が右肩上がりになっていること、背骨がまがっていること、首が前にでて、右腕の骨が変形してることを指摘されました。そしていろんなところをマッサージして骨を元の位置に戻した、と言われたのですが、骨がいいバランスになった(自分ではよくわかりませんでしたが)ことよりも、激しすぎるマッサージのダメージが大きく、次回予約を結局キャンセル。身体のバランスを整えていけば腕や手への負担が減り、腱鞘炎も治るだろうとの話でしたが、1回行っただけでは、手の痛みはまったくなおりませんでした。
でもそう、骨が動くと知ったのは収穫だったと思います。そして、
いいキーボードを買ったらどうですか?道具は大事ですよ。
という言葉も心に残りました。
リストレスト、パームレスト、トラックパッド
痛みをきっかけに、自分の手の動きを意識してみると、どうやらわたしは右手でマウス(アップルマジックマウス)をぶんぶん振り回すように使っています。これが痛みの原因かも?とすぐにマウス用のリストレストを購入しましたがそれでもまだ痛かったので、トラックパッド(アップルのマジックトラックパッド)を使ってみることに。さらにはパームレスト(キーボード用のリストレスト)も入手しました。
当初はリストレスト、パームレストのありがたみはよくわかりませんでしたが、今はどちらもあるほうがいいバランスな気がします。また、トラックパッドはマウスと違い、そおっと使えること、左手でも使いやすいのがいいです。でも今はなぜかマウスでも痛くありません。ちょうどいい道具というのは、慣れやその時々の身体のバランスによるでしょうか。
とにかくそうして、道具を変え、仕事をぐっと減らして数週間すると、日常生活では手や腕の痛みを感じることが少なくなってきました。マウスやトラックパッドの操作もだんだんラクに。が、今度はタイピングすると肘の手前が痛く、手が熱を持つような症状がでてきました。
そこで、セカンドオピニオンを、と別の整形外科に行くと、「指の腱鞘炎ですね。湿布を使いにくい部分なので、飲み薬にしましょう」と飲む鎮痛剤を処方されました。が、これを飲んで働いても、原因を取り除くことにはならず、むしろ無理してしまう可能性が大きくなる…と結局薬は飲みませんでした。
アレクサンダーテクニーク
冒頭で紹介した翻訳者杉本優さんの記事には、自然で無理のない体の使い方を教えるセラピーとして、ロルフ・ムーブメント、ヘラーワーク、アレクサンダーテクニークがちらりと紹介されていました。
このうち、アレクサンダーテクニークは耳にしたことがあったので、自分でも調べ、入門書を2冊読んでみました。青木紀和著『心と体の不調を解消するアレクサンダー・テクニーク入門』と石井ゆりこ著『演奏者のためのはじめてのアレクサンダー・テクニーク』です。
アレクサンダーテクニークはオーストラリア人で俳優だったフレデリック・マサイアス・アレクサンダー氏が発見した「自分自身の使い方」をよくするためのひとつの方法だそう。
このアレクサンダーさん、舞台で声が出なかったり、枯れてしまうという悩みから、どうも自分は身体の使い方に問題があるらしいと思い至り、自分を観察して解決法を探し始めました。そして声を出すためには、発声器官だけでなく、体全体をひとつのものとしてとらえ、使い方を見直す必要があると気づいたそうです。
文章をタイピングする作業は、ピアノを弾く動作に似ています。『演奏者のためのはじめてのアレクサンダー・テクニーク』には、腕の使い方の話が出てくるのですが、そこに、腕のはじまりは鎖骨で、背中側では肩甲骨につながっているという話がイラストとともに出てきます。
これを読むまで、わたしはタイピングというのは肘から先の動作だと思っていました。さらに言うと、実は肘付近が痛くなるまでは、手と指の動作だと思っていた気がします。でも自分の骨というか骸骨(?)をイメージし、鎖骨と肩甲骨から身体全体を動かすイメージでタイピングすると、リラックスできて力が抜ける気がします。
さらに、『心と体の不調を解消するアレクサンダー・テクニーク入門』には身体を動かす速さの話が出てきます。とにかく速く速くと身体を動かすと緊張しやすい。逆に、ゆっくり動かすとリラックスするという話なのですが、実際、ゆっくりタイピングすると身体の力が抜けるのがわかります。
翻訳のお仕事には納期がありますから、のんびりやってばかりもいられませんが、腱鞘炎になったのは、速く速くと思いすぎたせいもあるのかもと反省しました。
アレクサンダーテクニークは腱鞘炎対策に限らず健康法(肩こり腰痛対策になりそう)や美容法(姿勢がよくなる)としてもよさそうなので、機会があれば実際に指導を受けてみたいと思っています。
エルゴノミクス(人間工学)なキーボード
しっかり休もうと決めてから1ヶ月が経ち、独学ながらアレクサンダーテクニークを意識してパソコン操作をし始めた今、手や腕の痛みはほとんどなくなりました。今後は仕事量を増やしても痛くならないところまで持っていきたい、そのためには道具と身体の使い方、そして仕事環境をもっと工夫していきたいところです。
そこで今気になっているのはキーボード。ここしばらくはアップル純正のワイヤレスキーボードを使っていて、特に不満は感じていませんでしたが、腱鞘炎予防になるのなら是非いいものを使ってみたいと思い、あれこれ調べています。
まず、『通訳翻訳ジャーナル2015年冬号』で身体にも優しい!仕事グッズとして紹介されていたキーボードは次の3つでした。
東プレのREALFORCEは翻訳者の間で人気だと、通訳翻訳ジャーナルにはありました。ググって調べてみると、例えば新田順也さんのみんなのワードマクロのキーボード遍歴という記事に
翻訳者仲間からの紹介で、このキーボードを使い始めました。
とにかく独特のキータッチで、打鍵感覚がすごく気持ちよくてとりこになりました。
と書かれています。見た目は一昔前の標準的キーボードのようですが、人間工学を考慮、入力時の静けさや抜群のキータッチを実現しているというこのキーボード、最近小指が痛くなりがちな私にとっては、指ごとに荷重が違い、小指は他のキーよりも荷重が軽いというのが魅力的です。
ただし、このキーボードはWindows用で、MacOSで使うには、Appleのキー配列に直す無料ソフトが必要になるようです。
お値段もなかなかなので、購入するならその前にまずお店で触ってみたいと思います。
マイクロソフトのエルゴノミックキーボードは、見るからに人間工学なデザイン。キーボードが右と左に分かれ、中央が高く、外側に向かって傾斜したドーム型でパームレストもついています。先ほど紹介した、みんなのワードマクロの記事では、このキーボード(Sculpt Ergonomic Desktop)のことも書かれています。よい点だけ紹介すると、
ハの字型の配置が好きです。
キーの押し込みがスムーズです。
ワイヤレスなので、膝の上に置いてキー入力できます。
アダプターを使って、パームレストの高さを調整できます。最初は高くして使っていましたが、今はアダプターを外して低くして使っています。
テンキーが分離しています。机を広く使えます。
テンキーがあるとやっぱり便利ですね。なくてもいいと思っていたのですが、あればやっぱり便利です。
とあります。このキーボードに限らず、エルゴノミクスキーボードには左右分離したタイプがいくつかあるので、一度は使ってみたいです。ちなみにこのキーボードはお値段もお手頃です。
Macで使うにはREALFORCEの場合と同様、配列変換ソフトが必要になるようです。
キネシスのエルゴノミクスキーボードは今回キーボードについてあれこれ調べた中で一番個性的な見た目をしています。左右分離型キーボードの中でも際立って左右が分離し、しかもキーはお椀型の曲面上に並んでいます。そしてお値段もキーボードとは思えません。さらにはなんと、フットスイッチまでつけることができます。
実際に使っている方はというと、翻訳者の池田真紀子さんが仕事道具としてこの記事で紹介していました。
言葉ではちょっと説明しにくい、妙ちきりんな形状のキーボード。映画「メン・イン・ブラック」のオフィスのみなさんが使っているあれです。ここ8年ほど愛用していて、いまのはたしか3代め。1度これに慣れるともう手放せません。
万一壊れたりすると、大げさでも何でもなく、ほんとにその日から仕事に差し支えるので、つねに1つ新しいものを前倒しで購入してある(米 Kinesis 社から個人輸入)。
このキーボード、慣れると他が使えなくなるんでしょうね、きっと…。でもいつか使ってみたいです。ちなみにこのキーボードはMacにも対応しています。
ところで一般に翻訳者の方々はどのキーボードを使ってるのかしら?という疑問を今朝素朴にツイートしてみたところ、しんハムさんがどんぴしゃのアンケート結果を紹介してくださいました。
問16で使用しているキーボードのメーカー(や種類)を尋ねています。回答数66のうち、およそ3分の1にあたる21人の方がREALFORCE、同じくおよそ3分の1の20人の方がMicrosoftと回答されていました。次に多いのはLogicool/Logitechで9人。その次に多いのはFilcoで5人でした。
やはりREALFORCEは人気なんですね。そしてMicrosoftは価格も関係すると思いますがあの形状は魅力です。
他にもエルゴノミクスなキーボードはたくさんありますが、特徴は結局、1)キータッチというか各キーが上下する仕組みと、2)左右分割などのキーボード全体の形状、この2つの組み合わせのようです。どれが自分に合うかは店頭で使ってみることはもちろん、ある程度の時間使わないとわからないのかもしれません。
まとめ
実はここまで、アップル純正のキーボードではなく、今日アマゾンから届いたHappy Hacking Keyboard Lite2 for Macで書いてます。これだけ長い文章を書くのはたぶん、1ヶ月半以上ぶりだと思います。このキーボードが身体に優しいのか、私に合っているのかどうかはまだわかりませんが、キーボードを変えるとこんなに気分が変わって文章が書きたくなるんだ!と自分でも驚きながら書きました。やはり入力のための道具は大事だとしみじみ思いました。
でも、書くのに夢中になると、身体のことを忘れがちにもなります。こまめに休憩をいれて、ストレッチして、そしてアレクサンダーさんのように、自分がどんなふうに身体を使っているのかを観察して、ピアノを弾くようにリラックスしてタイピングしたいと思います。
もっとも大切なのは、首がラクで、頭が動くことができて、背骨全体がゆるやかに伸びていること。つまりプライマリー・コントロールを邪魔しないことです。まず自分の中心を思い出し、プライマリー・コントロールを邪魔しなければ、それだけで、動きにくかった腕や指がスムーズに動くようになることは、よくあることなのです。(石井ゆりこ著『演奏者のためのはじめてのアレクサンダー・テクニーク』、p.67)