Design School Kolding までの軌跡(絶望編)

あるデザイナーが体験した絶望と希望の話

はじめに

2017年9月13日、僕はデンマークのコリングにいます。Design School KoldingのSocial inclution Labというデザイン・ラボで、 Visiting PhD student として籍をおいています。ちょうど去年の今日、この学校と藝大が開催したワークショップに参加した日でした。

Design School Kolding

結婚して、まだ1年半しかたっておらず、その奥さんを日本に残してまで、ここに来た理由はいったいなんだったのか? その軌跡を辿りながら考えてみたいと思いました。そして、このことは入学ガイダンスで学長のElisabethが語った「ルーツを探せ!」という問いに対して、近づける気がしています。


この文章を届けたい相手

ここまでの話をするには、大きく2つのお話に分けなければなりません。それは、なぜ、東京藝術大学の大学院にいったのか?、もうひとつは、なぜDesign School Koldingにいったのか?です。かなり、本音ベースで記述してみたいと思います。

▼なお、以下に物語るデザインは主に「UX」界隈の話であり、著者の主観と感情100%で記述でいきます!できるだけ客観性や説明的な記述は意図的に除いていこうと思います。

その理由は、この文章を同じような悩みを抱えているクリエイティブ出身の社会人デザイナーがいたら届けたいと思ったからです。そのためには、客観性や説明文みたいなものは、ちょっと相性が悪いところがあります。もっと感覚的に伝えるには、著者視点の一人称で語らなければならないこと、そして感情を豊かに表現することが必要になります。

そして、この2つこそが、昨今のDesign Thinkingで語られていない箇所であり、そのメカニズムを分かった人が、次のデザイン時代の覇権を握るのではないか?と個人的には考えています。


なぜ、東京藝術大学の大学院にいったのか?

1. 誰でもデザイナーになれる時代の到来

2014年に論文というかたちで、初めて自分のデザインの実践知を記述しました。『フラットデザインが炙り出すデザインの知恵』という論述です。これは2013年にAppleがiOS7でフラットデザインを採用したことと、デザイン思考のブームに対する、僕なりの反抗の試みだったようにも感じます。(振り返ってみると)

初めてのことだったので、半年間、文章を書いては修正しての繰り返しでした。毎日、仕事が終わったら漫画喫茶に行って、深夜に執筆してました。それこそ、血が滲むように書き上げた論文でした。そして、それ以降、デザイン思考とフラットデザインは業界に浸透していきました。2014年の頃、僕の目には以下のようにデザイン界隈が映っていました。素直に書くと以下のような感じです。

  1. デザインという営みがフレーム化して、誰でも手に入りやすくなった
    ➡デザインの敷居が下がったことに対する嫉妬
  2. フラットデザインという、コンポーネント型デザインが始まった
    ➡ 組合せるだけで、一定水準以上の品質保証されたデザインがつくれることに対する嫉妬
  3. 自称、グラフィックデザイナー出身のWEBデザイナー/UIデザイナーが増えた。その中から※口だけUXデザイナーが生まれた(※もちろん、メッチャできるUXデザイナーさんもたくさんいますよ!)
    ➡ 簡単にデザイナーを名乗れることへの嫉妬
  4. UXを語る文脈がWEBやアプリ完結のものが多く、非常に狭かった
    ➡ 製品やブランド体験から語られるものが少なく、かなり言いすぎている感が否めないのに、それを言い切っていることへの嫉妬
【※注】ここまで読んでイラッとした方、読者ターゲットが違うので、これ以上、読み進めなくて大丈夫です!(お互いが不幸になるだけなのでやめましょう!)

その結果、僕はデザインに対する言葉の重みが軽くなったことに嫌気がさしました。フレームによるデザインプロセスの体系化やコンポーネントによる美意識や使いやすさの体系化。それらは、デザインすることに対して、思考停止のように感じていました。つまり、あまり考えなくても、成果物ができあがるということです。

2. 成果物の結果ではなく、プロセス重視へ

さらに、クリエイティブ系出身ではないデザイナーの台頭は、デザインの成果物(Design)で物語るのでなく、デザインの行為自体(Designing)だけで物語ることが多く、その覇権を奪いにきました。(※広告系界隈などは、成果物と行為がセットになり、知行一致した物語りがメディアなどで拝見する印象なのですが、UX界隈は後者のみが強く台頭していたと思います)

周りの友人や先輩後輩を見回しても、美術大学出身のデザイナーは、手を動かすことに生きがいや楽しみを見出すので、その実践に対して何かを物語ることにあまり興味はなく、言葉や文字を使って説明することが得意ではありません。また、そのノウハウ(言葉や文字をつかって論理的に説明する方法)を大学で学ぶことはありませんでした。それゆえに、その戦場に立ったとして、持ち合わせる武器が少ないので、伝わりません。結果的に口がまわる「説明」が上手い人がデザイン界隈に影響力を持ち始めました。

メディアなどで取り上げられる著名デザイナーさんたちは実践の中からその武器を見出し、自分の言葉でデザインを説明できる人たちだったんだということが分かります。もちろん、成果物が何かの課題を達成し、結果を出していることがなによりも凄いところです。


3. デザイナーという言葉の重さ

正直、僕はデザインに対して、本当に、本当に、本当に、絶望していました。

僕が高校2年生の時にあんなに悩んで、それでもデザイナーになりたいと願って、美術予備校に通って、なかなか上達しない自分の絵に涙を流して、美大を受験して、受かって、4年間あがいて、デザインっていったいなんだろう?って毎日考えて、オープンキャンパスで深澤直人さんにプレゼンする機会をもらって、プレゼンしたらバッサリきられて、泣きそうになって、デザイン雑誌を読んで、佐藤可士和さんみたいな(当時の)アートディレクターにあこがれて、原研哉さんみたいな無印良品のグラフィックデザインをつくりたいって願って、でも情報デザインってよくわからなかったから「情報の美」がテーマの世界グラフィックデザイン会議に行って、デザインの世界の広さを知ったり、サイトウマコトさんやジョン前田さん、ドナルド・ノーマン、平野敬子さん、アンドレアス・シュナイダーなどのスターデザイナーを知って、自分もいつか「デザイナー」になりたいって願ったあの「デザイナー」そして、「デザイン」という言葉。

この言葉がこんなにも軽く扱われることに対して絶望していました。それは、素直に意見を申し上げると、誰でも「デザイナー」を簡単に名乗れる時代になったことへの絶望でした。

例えば、ちょっとバナーとランディングページつくったことある人が元グラフィックデザイナーと経歴に書いていることに大きな憤りを感じていました。なぜなら、僕が尊敬しているグラフィックデザイナーと肩を並べていることに対して、なにか馬鹿にされている気がして、腹が立っていました。それは、その言葉の重さを知らないことへのお手軽さに対する怒りでした。

僕は今でも自分がデザイナーとして名乗ることへの怖さを感じています。自分が本当に名乗っていいのだろうかと?自問自答を繰り返すばかりです。それは、偉大なる先輩デザイナー方々の想いみたいなものがそこに乗っかっていることを知っているからなのでしょう。

だからこそ、そんな風に思っていたデザインという言葉、デザイナーという言葉が軽んじられていったことに絶望していったのでした。


4. 転機になった出来事

こんなフレームワーク化された仕事をして、コンポーネントぽいぽいで造形物をつくって、アプリやWEBのデザインをやっていくことに、僕の30代という時間を投資して、本当に良いのだろうか?それは、本当にデザインなのだろうか?本当にこれが、僕がやりたかったデザイナーの姿なのだろうか?と悩んでいる時期がずっとありました。

正直、自分の会社でこれ以上、自分の人生を投資して、デザイナーをやり続けることに意味を見出せなくなっていました。いっそのこと、自分の魂を売って、どこかの企業に再就職でもしもしようかなと考えていました。

若くて何も知らないデザイナーを買い叩いて、安いイラストレーター見つけて発注して、ジャーニーマップ、ペルソナ、キャンパスマップなどを書くことを目的化させて、クライアントに喜んでもらって、自分の実績じゃなくて、会社の実績で実力を水増しして、そうやって安定したお金を稼いで、これからは家族とお金のことだけを考えて生きようかな、もうデザインについて考えるのをやめようかなと思っていました。

そんな憂鬱な日々を過ごしていた中で、転機になった出来事が2つありました。

  1. 青山学院大学社会情報学部ワークショップデザイナー育成プログラム
  2. 東京藝術大学とフィンランド アールト大学の共同ワークショップ

これら2つの出来事に巡り合ったことが、もう一度、デザインを学び直そう!大学院にいこう!と決めたきっかけでした。

ワークショップ育成プログラムでもっとも影響を受けたことは「学び」に対する再認でした。つまり、学びとは何か?を考えることができ「大人の学び方」を「学ぶ」ことができたのです。これが最大の武器となりました。もうどこに行っても自分でやれる、考えることができる、学べることができると自信がつきました。次の問題は「何を(What)」学ぶかでした。

  • Why:デザイン界隈に絶望したから
  • What:(?)⬅
  • How:大人の学び方を使って

そして、運命のアールト大学の共同ワークショップに参加します。ワークショップの初日、Kari-Hans先生がこんなことを言いいました。

「君たちは、組織、機関、法律、ネットワーク、ムーブメントなどは“デザイン”の対象だと思う?」

!!!!!僕はその時、本当に、本当に、本当に衝撃を受けました。コミュニティデザインは日本でも耳にしていましたが「法律」や「ムーブメント」がデザインの対象になるなんて、想像もしたことがなかったからです。フィンランドのアールト大学では、本気でそれらをデザインの対象として扱っていたのです。

つづいて、Juha先生が次のように言いました。

「19世紀はデザインの第1世代、“ビジュアル”がデザインの対象だった。20世紀はデザインの第2世代、“オブジェクト”がデザインの対象だった。1980からはデザインの第3世代が始まった。“インターフェイス”がデザインの対象となり、2000年には“サービス”がデザインの対象となった。そして、今はデザインの第4世代。2010年からは、“ストラクチャー”がデザインの対象となっている。」

僕はここで、やっと自分の目指すべきこと、学ぶべきことが分かったのでした。自分が絶望していたのは、第三世代のデザイン界隈だったんだ!でも、世界は次のデザインを始めていたんだ!

僕の大好きなデザインは時代とともに歩んでいて、そして、僕は、デザインに対して何も絶望することなんて、全くなかったんだと感じて、胸が躍りました。


5.フレームをつくる学生、海外輸入する大人

更に衝撃は続きます。最終プレゼンの前日にある学生が模造紙でプレゼン資料を作っていました。そして、僕の目の前で「ジャーニーマップ」を描いたのです!僕はすぐに聞きました。

「ジャーニーマップ、知ってるの?」

もちろん、その学生はそんなフレームなんて知りませんでした。そりゃそうだと思いました。藝大がそんなフレームを教える授業を持つはずがないと思いました。

「この学生、自分の頭で考えて、その方が伝えわると思ったから、時間軸と感情曲線などを表現したんだ!」

あの受験制度はこんなにも優秀な学生を集めるんだと本当に驚きました。日本でトップクラスの美大生は「フレームから創造できる」学生なんだと鳥肌が立ちました!そして、自分が海外のデザインフレームを輸入している現状に対して、凄く恥ずかしくなりました。

いつから、海外のデザインメソッドを輸入して、その翻訳スピードを競って、メディアでポジショニングトークすることが、デザイン業界の活性化になるみたいな風潮になったんだろう…なんで自分たちで作れなくなってしまったんだろう…。自分自身で、日本人だからこその方法と方法論をつくらないと駄目じゃないのかな…?

こうして、学ぶべきことが分かり、東京藝術大学大学院にいきたいと心から願いました。もちろん、多摩美術大学の情報デザイン学科でお世話になった須永先生が藝大に移ったことも要因のひとつではありますが、そこが根源的な理由ではありませんでした。


6.学び合いができる最高のチーム

そして、翌年の4月から、ありがたいことに大学院生になれました。社会人をやりながら、学生をやるという二足のわらじ生活がスタートしました。幸いなことに僕が所属している研究室のメンバーにも恵まれました。

もうひとりの社会人学生であるヤフーの瀧ちゃんとは、自分の研究相談はもちろん、デザイン界隈の話やデザインの仕事の相談もできる同級生です。他にも、SFCからきた左脳型思考で論述を学んできたユウスケ、右脳も左脳も抜群のハイブリッド系のエレナ、そして右脳型思考の王ちゃん。さらに多摩美術大学の大学院生の安村くん。凄くバランス良い学び合えるチームでした。

残念ながら、僕は現在休学中なので一緒に卒業することはできません。本当は、みんなと一緒に卒業写真を撮りたかったです。毎週金曜日のゼミ終わりにみんなで飲みに行って、色んな話ができたことは大切な思い出です。

ここまでが「Design School Kolding までの軌跡(絶望編)」です。藝大での学びは後半で書こうと思います。藝大での学びを通して、あらためて、「表現すること」の意味と価値を学び、そしてそれがぼくの中で希望に変わっていきます。その希望はこのDesign School Koldingで確信へと変わっています。

後半に続く