若いのに死にたいと思っている人に伝えたいことがあります

子供たちが亡くなる前に明らかにしていた心配事としては、卒業後の進路など「進路問題」が33人、「家庭内不和」が31人、「いじめの問題」が10人と多かった。

家庭内不和については他の方に譲るとして、他の2つなら私が助言できます。

安定などない

まず進路問題ですが、あなたが希望する進路に進めなかったとしても生きていけます。学校など碌に行かなかった私などがその良い例、証拠でしょう。金持ちにはなっていませんが、飢え死にもしていません。病気になったら病院へ行けますし、住む場所と、健康的な食事があります。これ以上何を望むことがあるのでしょうか。

良い大学へ入って、良い企業へ入って、それで一生安泰だと思っているのだとしたらそれは大間違いで、いや、少なくとも過去のある時点ではそれが正解であった頃があったのですが、今はそのような「正解」は無い時代だと感じています。前述の考えが一応の正解であったのは、日本で言えば戦後の高度経済成長期からバブルの頃までですが、それは世界的に見ても例外的な時期であり、人生は短いが故に自分の若い頃の常識を引きずって生きている、あなたの親の考えは今は通用しないのです。「今日から世界のルールが変わりました!」と誰も教えてはくれませんが、いつの間にかルールは変わるものなのです。あなたもその親の影響で、半世紀前の“常識”を、あたかも永遠の真理であるかのように感じているだけです。

今は大企業だろうと潰れますし、公務員だって仕事が無くなる事もあるでしょう。それにもし、あなたがそのような安定している(と思われる)ポジションに就いたとして、入った先の上司が、それはもう胃に穴が空くほど嫌な奴だったらどうします?既に結婚もして、子供もいるし、自宅の35年ローンもあるし…と胃薬でも飲みながら耐えますか?しばらくの間、耐えたとしても、ある日の月曜日、衝動的に駅のプラットフォームから線路に飛び降りて、その後電車が1時間ほど不通になり、警察があなたの手足などを回収し、大勢の利用者からはあなたの苦悩など理解せずに、これじゃ会社に遅刻するだろう、全く迷惑な、死にたいなら海に飛び込め、と思われるでしょうけど、あなたの人生、そんな事をしたかったわけではないでしょう。

「安定」などという言葉は人生には通用しません。人生は死ぬまで安定などしないからです。経済的な話をすると、景気というのは10年単位で良くなったり悪くなったりしますし、あなたも、いつでも健康というわけではないでしょう。もし、奇跡的にあなたが健康を長い間維持できたとしても、あなたの家族、親戚、友人、ペットなどがそのうち死にます。地震も台風も来ます。道を歩いていて、不運にも通り魔に襲われるかもしれません。暴走した自動車にはねられるかもしれません。乗った飛行機が落ちるかもしれません。そのような、自分ではどうしようもない外部原因が、奇跡的にも起きなかったとして、しかもあなたが大きな成功を収め、大金持ちになったとしても、結局最後にあなたは病気か寿命で死にます。金があるなら、最新の医療を駆使して、死ぬまでの時間を1年か2年か、延ばせるかもしれませんが、結局は死ぬので同じ事です。そうしたら、あなたはただの死体になり、生前の地位も、名誉も、財産も、何の価値もなくなります。エジプト考古学博物館に、古代エジプト王のミイラがありますけど、当時その王は、ピラミッドを建てるぐらいの絶大な権力を持ち、死後もミイラにすればそのうち冥界を通って王は生き返るなんて事が信じられていたのですけど、あれから4000年後の今、どうですか?生き返りましたかー?王様ー?聞こえてますか王様ー?ただの干物じゃないですかぁー!?とか言って元・王の干物に蹴りでも入れたい気分ですが、警備員が飛んできそうなのでやりません。

残念ながらあなたの周囲はあなたの思い通りにはならない

人生は自分の思い通りにならない、という受け入れがたい事実を受け入れる強さを持ち、状況が変わったらその都度、いまある状況での最善の策はどれだろうか?と考えて生き延びる、これが強い生き方だと思います。よく成功者が、運命は自分の手で掴み取れ、だとか言いますが、宝くじに当たった人の必勝法など聞いても無駄です。生物の進化を見れば、環境に適応したものだけが生き残るのです。強い個体ではありません。それは厳しい受験戦争を生き残れ、のような「10代時点でのあなたのスペック」という狭い話ではありません。そんなものなど、今後、80歳くらいまで生きるのに特に重大な意味は持ちません。もしあなたが熊で、冬が来て、食べ物が少なくなったら冬眠をしろ、という事です。どうして食べ物が無いんだ!不公平だ!と周囲に当たり散らして冬眠をしなかった熊は一頭残らず飢え死ぬでしょう。ストロマトライトが地球の大気中に酸素を放出し出したら、酸素を呼吸してみようかとか、そういう話です。

ということにしたいのですね

いじめについてですが、もし今あなたがいじめられているのだとしたら、教師や親に助けを求めましょう。それでも埒が明かない場合は、下らない生徒と下らない教師のいる、学校などという下らない所へ行くのは止めましょう。学校が有意義で、すばらしい所なのだというのは、そういう事にしておくことで利益を得る層による印象操作です。そんな事を言うのは、学校を中心とする価値観が横行する世界で勝ち残った事によって文部科学大臣になれた人かもしれないし、教員の職業にありつけた人かもしれないし、学校で甘酸っぱい恋愛ができるという歌を歌えば自分に金が入ってくる歌手かもしれませんが、あなたがこれら以外の人間だった場合、そのような言説を聞いた時には「ということにしたいのですね;-)」と言える強さがほしい。昔、インターネットが大学か研究所の人間しか使えなかった頃、日本語ニュースグループで息巻いていた人物がいて、その人が相手を圧殺する決め台詞が「ということにしたいのですね;-)」でした。これは単なる揚げ足取りでしょうか?当時はそう思いましたが、今、私の感想はちょっと異なります。皆「ということにしたい」のです。そこに根拠などありません。だから人間は愚かなのです。それじゃ駄目だ、証拠が無ければ、と言う優れた人達が科学を発展させました。

誰かが何かの主張をする場合、大抵は、それによって利益を得る事が出来るからなのだという事を覚えておいてほしい。他人の台詞、もしくは時代の空気に対しての「ということにしたいのですね;-)」。この客観性が、おそらくあなたにとって生死を分けるほど重要になるのだと私は感じていて、もし、あなたの周囲の人間の大多数が「学校へ行かなければ集団から阻害される、阻害されると学校を卒業できない、卒業できないと就職できない、就職できないと死ぬ」と思っていた場合、その共同幻想でも虚構でも何でもいいですけど、それに抗うことができなければ、本当に死んでしまう。だから、そんな共同幻想に対しても「学校へ行かなければ(中略)死ぬ、ということにしたいのですね;-)」と言ってのける強さを、自分が生きるために、ぜひとも身につけなければならない。自分と自分の周囲を客観視するために参考になる本をこの記事の最後に載せたので、ぜひ読んでほしいと思っています。

勉強とは試験の成績の事ではない

学校へ行かなくても、とりあえず初等教育の最初の方で、読み書きと簡単な計算ぐらいできれば、後は自分の意思次第で(これが難しいのですが)独学でどうにでもなります。勉強というのは試験で良い成績をおさめる事ではなく、分からなかった事が分かるようになり、出来なかった事が出来るようになるまでの試行錯誤の過程の事を言います。成績というのはその結果であり、第三者にもひと目で理解度が分かるように数字で成績を出しているだけです。大した事ではありません。結果のみを見ようとする人間は、勉強の何たるかが分かっていないので、無視して良いでしょう。
繰り返しますが重要なのは過程であり、学校では、大勢の生徒の理解度を判定することを面倒だと感じているために、理解度を手っ取り早く試験の結果の数字で見たいだけです。人間の個性は一人一人違うのに、画一的に物事を教えよう、という、これは教える側のコストの問題なのですが、到底良い方法とは思えません。そのうち技術が問題を解決し、一人ひとり生徒の個性に合わせたカリキュラムになるかと思いますが、それまでの間、学校とは技術の進歩について行けない人間たちが運営する遅れた施設であり、そこでの評価基準というのは「上の命令に対し、文句を言わずに勉強などして従えたか」であり、それが評価される組織は軍隊だけです。

昔、日本の第二次産業華やかなりし頃は、そのような“従順な兵士”を沢山供給することが学校の任務であり産業界の要請であったわけですけど、誰でも出来る単純労働をする要員がたくさん欲しい時代はオートメーション化だかIT化だかにより既に終わっており、全教科80点で苦手もないが特技もない“従順な兵士”よりも、自分のシャツのボタンすらかけられないが、2000年先までのカレンダーをすべて記憶している、みたいな人間の方をほしいんですよ新しい産業を育てるために。なので、独学の指針としては「苦手教科を克服しよう」みたいなことに意味はありません。
自分の興味もない事を嫌々やっても、それが好きでたまらないヤツと競争して勝てると思いますか?試験で20点だった教科を嫌々頑張って40点にするよりも、興味があって80点だったものを誰も追いつけない200点にしましょう。好きなこと、興味のあることだけ極めてください。嫌いな野菜も食べましょうとか、勉強は栄養学ではないのだから“バランスのよい食事”なんて要らない。産業はますます専門化しているのだから専門バカ、大いに結構。ジェネラリストの時代じゃない。お菓子だけ食べてお菓子のプロになれ!

子供の問いとしてよくある「どうして勉強しなくちゃいけないの?」については、「初等教育の目的というのは、何でも生徒にやらせてみて、自分にとって何が得意で何が苦手か、何に興味があり、何に無いのかを分からせること」だと私は感じていて、言われた事が出来たから偉い、出来なかったから偉くない、という話ではないと感じます。別に学校で学ぶことがすべてなわけではないし、実社会で役に立つ事ほど学校の外で学べると私は自身の体験から感じています。なので、学校で学ぶ教科が出来なければ人間失格だとか、お先真っ暗だとか、そういう事は一切考える必要はありません。学校の教科というのは現時点の社会にとってこれが必要だと勝手に信じている事柄を教えているだけであって、将来に渡る永遠の価値ではないし、人間の価値観というものは何より移ろいやすいものです。なに、スポーツができるから尊敬される?速く走れたからといって、私が自転車に乗ったほうが速いですよ。そんなもの、糞の役にも立たないのに、栄誉だ、凄い、などとおだてて、別の銀河から来た宇宙人がオリンピックなど見たら、地球人というのはいい年した大人が全力疾走するようなバカばかりだと思うのではないか。

他人をいじめる奴らは猿

話が逸れたので、いじめの話です。なぜ人間の集団が異質なものを排除する傾向にあるのかについては専門家の言を待つとして、その前にやはり、人間は所詮チンパンジーの親戚なので根源的に動物なのだという事実、事実ですよ…遺伝子という証拠があるので…を受け入れなければならないかと思います。「いじめ」の原型はというと、それは異質なものに対する恐怖でもあろうし、恐怖によりそれを排除したがる、本能的な、とても知的とは言えない行為でしょう。チンパンジーの群れは、自分が属する群れ以外の集団に対しては大抵が敵対的であり、時に殺し合いに発展するそうです。ジャレド・ダイアモンドの著書によると、パプア・ニューギニアで石器時代さながらの暮らしをしている人たちの部族間抗争に対して、一方の人間はもう一方の部族の人間を指して「あいつら人間じゃないんだ(だから殺しても良い)」と言ったそうです。別に私は、石器時代さながらの暮らしをしている人たちを非文明人だとか野蛮人だとか言って見下したいわけではありません。私も、彼らも、異なる所など何もないからです。自称文明国の文明人であっても、自分とは異なる宗教、言語、文化、価値観、生活習慣および思想を持った個人あるいは集団に対する「自分の属する集団ではない他集団に対する本能的な恐怖」に突き動かされてつい、シナゴーグで銃を乱射したり移民排斥を訴える政党に投票したりして心の平穏を得るわけです。自分が排斥される立場になるまでは。

銃を乱射することがなくても、通勤電車に乗って、同じような髪型をして、同じようなメガネを掛け、黒いスーツを着て、スマホをいじっている、彼らは「私はあなたと同じ価値観を共有する仲間、仲間ですよ!敵じゃないです、だから攻撃しないで!」と言いたいのです。学校のいじめも同じです。誰かを仲間外れにすることで自分は「あいつとは違う、あなたの仲間です。だから攻撃しないで!」と言いたいだけの猿野郎であり、その行動原理はチンパンジーと何ら変わるところはありません。人は群れる原理、「私たち」と「彼ら」を分けたがる原理、「彼ら」を排斥したがる原理、それは本能的な恐怖心です。

人間は、生まれたときは全員、単なるチンパンジーの親戚ですが、成長するに従ってそれを自覚し人間になるのです。無自覚な人間は、一生チンパンジーのままですが、それにすら気づきませんし、そのような人たちが大多数のようです。
つまりいじめとは、そのチンパンジーたちが遺憾なくその素性を発揮しただけの、ごく自然な行為であると言うことが出来ますが、ではそのいじめに遭遇したときはどうしたら良いのかというと、自分は他者に対してこのような行為に及ぶまい、と心に誓って人間になり、その場を去るしかありません。その時に、学校にいなければ生きていけないだとか、その手の「前時代的な妄想」が脳裏をよぎり、その極めて強力な妄想ゆえに、もう生きていけない、という結論に達して死んでしまう人もいるとか。そんな事はありません。ありませんが、もしあなたの目標が、学校を優秀な成績で卒業するとか、そいういう事で、その計画が、成績不振で、あるいは、いじめられて、台無しになったという受け入れがたい事実があるのならばまずはそれを受け入れる必要があります。

これは大変な事ですが、生きてゆくには「ならばプランBだ」とばかりに、自分では変えられない周囲の状況を受け入れ、それに合わせて生きてゆくしかありません。これは私の意見ではなく、生物が生きる、生き残るとは、周囲の環境に適応できるか否か、それだけだからです。周囲の環境は目まぐるしく変わっていくし、その環境に対して、その場その場、アドリブで、生きていくしか無い。色々やって、うまくいった事を続ければよい。それもまたうまくいかなくなる時がくれば、また別のことを…やるしかない。それが死ぬまで続く。世界?宇宙?ともかく自分の周囲がそうなっているので、従うしか無い。私の意見じゃありません。文句なら、この宇宙を作ったかもしれない、白いひげの、杖を持った爺さんに言ってください。

自殺に関する哲学と宗教

最後に、なぜ自殺をしてはいけないのか?については、生物学的な話ではなく哲学、宗教の話になりがちですが、それらを抜きにして現実的に語ると、あなたが死んではいけない理由は、それによって周囲の人間に多大な迷惑が掛かるからです。あなたの家族、親戚、親友が一生心の傷を負って、つまらない、後悔の一生を送ることになります。だから自殺をしてはいけない、という事になります。

宗教の話になると、キリスト教やイスラム教などの一神教の宗教では、人間の命だとか権利というのは神によって全員に平等に与えられている、という前提があるので、神によって与えられた命を粗末にしてはいけない、というような考え方ができるようです。しかし神なんていない、という事に気づいてしまった現代人のあなたには説得力がないでしょう。もう少し哲学寄りの、神のいない宗教の話をします。仏教です。仏教では自殺を明確に禁止はしていないようです(典拠なし)。しかし仏教の目的というのは死後の心の平穏ではなく、今生きているこの世界での心の平穏です。という事は、仏教を奉ずるなら死なずに生きているうちに悟りを開こう、となります。

結論

学校に適用出来なければ社会で通用しない、生きていけない
→学校のシステムは為政者の都合により作られている、200年前と何も変わらない、技術の進歩について行けない奴らの下らない場所なので過度に尊ぶような真似はしないこと。学校に殺されるな。逃げる事はまったく恥ずかしくない。地震が起きたら建物の外に逃げるでしょう。それが恥ずかしいですか?

集団から排除されたので、生きていけない
→チンパンジー共とつるむことはない。自分だけでも人間になれ。あなたの生活はあなたの周囲のコミュニティによる村八分が死刑宣告になるわけではなく、生活は国が保証する、という建前が近代国家。「国のために死んでくれ」と言われるまでは国家主義者になってみるか?

なぜ自殺をしてはいけないのか
→周囲に多大な迷惑が掛かるから

一神教では自殺は推奨されない
→神などいないが、虚構だろうと生きるためには信じてみるか?

仏教は自殺を明確に禁止はしていない
→仏教の目的は今ここでの悟り。死後の世界があっても無くても、神がいてもいなくても、あなたの今、ここ、での悟りには関係がないので考えない、語らない、が仏教の立場。心の平穏を目指してヴィパッサナー瞑想でもしてみるか?

「生きていたいが、もう死ぬしか無い」と考えている人たちに対しては、「そうではない、生きられる」と申し上げたい。これはマラソン選手への沿道からの応援「がんばれー」のような、他人に無限の頑張りを要求しておいて自分は何もしないという、無責任な台詞ではない。悩んでいる人がいたら、私に連絡してほしい。私は碌でもない人間だけど、ちゃんと話を聞きます。

参考文献

死のうかと思いつめている人は、狭い考えにはまってしまっています。自分と周囲を客観視するのに役立つ本を紹介します。
私自身、こういう本は25年前に読みたかった。

人類史

著者の「銃・病原菌・鉄」は、ヨーロッパ人がアメリカ、アフリカ大陸を征服したのは単なる環境要因であった、とするのは新たな視点だったし、続く著書「文明崩壊」は、誰も環境からは逃れられない、金持ちがいたとしても「沈没船で最後に死ぬ権利を買うことしか出来ない」という。本著は著者のパプア・ニューギニアでの調査を元に、何百万年も続いた先史時代がどのようなもので、その延長線上に現在の人類があるし、その未来は…というと割とありきたりな内容で、それこそ老年に差し掛かった著者が見えてきた、本当に重要なことなのかもしれないと感じた。

人類とは、皆で同じ妄想をしていただけの猿の親戚に過ぎなかった!神がいると信じること、国家があると信じること、紙幣という紙切れに価値があると信じること、法律という紙切れに書かれたインクの染みに過ぎない文章が人を刑務所に入れたり殺したりできると信じること、全てはただの虚構だった。神も、国家も、紙幣も、企業も、法律も、全て実体などなく、人々の頭の中にしか存在しない。しかし同じ虚構を集団で共有する事で人類は巨大な神殿を建て、銀行は起業家に金を貸し、発展していった。人間とはただの夢想家の猿だったのか…。後述の、生物学方面からの宗教批判はドーキンスなどが有名だが、歴史学方面から同じ切り口で人類史を俯瞰した斬新な本。そしてこの本を読んだ後、あなたは神に愛された特別な存在ではなくなり、裸の動物として一人荒野に放り出される!
所属部族なしの孤立無援とあっては余りにも不安な人間は、殆どがヤクザのグループに入ったり、企業という部族へ入ったり、宗教が全てであると宗教原理主義者になったり、国家が全てであると国家主義者になったりと、虚構に命懸けでしがみつく。そして私が命懸けでしがみついている虚構を侮辱するものは殺してやる!と。頭は猿のままなのに武器といえば核ミサイルまで持っているのだから手に負えない。

宗教

雲の上に住んでいる白いひげの爺さんなんていなくても偶然あるいはゆるやかな漸進的変化を何百万世代も続けていれば、ついには人間のような複雑な構造を持った生物が生まれる、進化に目的も方向性もないことを「盲目の時計職人」と表現。宇宙や生物が、何らかの意思(宗教家は神と呼ぶ)によって作られたというインテリジェント・デザイン論への生物学者からの反論。
生物は、環境さえ揃っていれば勝手に湧いて出てくるのではないかと感じた。

博覧強記とはこの人のことを言うのでしょう。古今東西の書籍からの引用だらけで語る神を信じる心の構造。進化心理学というのは、サピエンス全史もそうだけど、今後もっと発展していくならば、文字を持たない時代の人間が考えたことも、少しは分かってくるのではないか。

私の家の宗教は仏教だが、肉食飲酒妻帯で高級車を乗り回す坊さんがいる鎌倉仏教なんか糞食らえだと思っている。もし私が仏陀だったら、日本の坊主の背中に飛び蹴りを食らわせて「話変わっとるやんけ!」と言いたい。いや、悟りを開いた人間はそんな事はしないか。そんな理由で、オリジナルの仏教の形を留めている上座部仏教に関心があり。著者がいうには仏教は心の科学であるらしいのだけど、輪廻転生みたいな話になると急に屁理屈めいてくるように感じた。137億年前の宇宙で起きたビッグバンで出来た物質が私達の体を作っているのだ、みたいな「輪廻」なら納得しますが、「生まれ変わり」みたいな話をされると、検証できないものは科学ではない、と感じる。それ以外は深く納得。人間を含む生物は全て、苦から逃れるために生きている。息を止めれば苦しいから呼吸し続ける。お腹が空くと不快だから食べ物を食べたい。しかし満腹してもまた空腹になる。決して満足しない。常に現状を不満に思っている。そんな生物としての自分を客観視するところから始まり、では、そのような苦からどう逃れるのか?仏教の、そういう思考の精緻さは感心させられる。しかし私が完全に仏教に帰依できない理由は前述の輪廻の話がどうにも小難しい屁理屈のように聞こえるのと、他人からのお布施に頼る生活というのは人類が農耕を始めて余剰食料が出来たから実現した、ここ13,000年ほどの新しいライフスタイル、他人の稼ぎに乗っかって自分だけが救われているに過ぎないのに、それを自分が救われる唯一の生き方みたいに言われても、それは「持続可能」じゃないよね、という思いがある。いずれ、食糧生産から全ての事を人間の代わりに機械がするようになる時代が訪れたら、いっちょ出家してみますか、という気はするが、それまでは仏陀とはいえ単なるニートに過ぎない。仏教を宗教だとするから、仏陀の言うことは全て正しい、それを盲信しなさい、となるから、むきになって輪廻を擁護してしまう。いや、著者が言うには「仏教は自分で検証可能な心の科学である」?いやいや「悟り」だって自己申告じゃないか。第三者が検証不可能。しかし、もし仏教が宗教ではなく哲学だとしたら?「哲学者・仏陀は良いことも言ったが、的外れな事も言ったよね。まあ、人間だからね。完璧はありえない」となり、その良いところだけを抽出して人生の糧とすればよいのでは。こう書くと私が仏教を信用していないように感じるかもしれないけど、これは仏教のエッセンスに対する最大限の賛辞であって、私は一神教に対しては、まず一言目に「神なんていねえし」となり、そこで話は終わり。「あなたは神を信じますか?」とか「信じる者は救われる」という勧誘の時の有名な台詞があるが、ほら見ろ「嘘だけど自分の利益の為にあえて信じる」が前提になってるじゃねえか、と。偽ニュース、真実軽視(post truth)の時代。そんなものはもうたくさんだ!

哲学

Justiceを”正義”と訳したことには違和感を感じる。本書で語られているのは正義ではなく“公平性”の方のJustice。自分や他人を助けるために誰かを犠牲にするのか?という話から、金持ちが金を人より蓄えて良い根拠はどこにある?法律を守らなきゃいけないなんて生まれた瞬間に契約書でも取り交わしたのか?など、普段当たり前だと思っている事柄の根拠を問い直すきっかけになれば。哲学、政治哲学、法学、のような、普段あまり勉強しないであろう分野の入門として、身近なテーマから話を広げていくので、読者が思考のエクササイズをするのに適していると感じた。哲学入門としては「ソフィーの世界」が有名だが、哲学入門といった内容で、難解な20世紀の哲学は上っ面だけ舐めて終わるし、私は不満に思った。
この本は、政治哲学ではなくて法律の本といえる。大学の法学部でも行かなければ考えることもないであろう、法律とその根拠、そしてどのように法律を運用していくべきか、といった遠くて身近な内容を、自分の頭で考えてみる。大学の法学部ってそんな事やってたの?法律を丸暗記して弁護士になるための勉強だけしていると思っていたよ。これであなたもハーバード大学の講義を受けたことになり、この本がきっかけであなたの中で“公平性とは何か”を思考することで、「まともな事を考える人」になれると感じた。

自己啓発

「人間は理性ではなく感情の動物」。重要なことなので百万回繰り返したい。これを理解できただけでも本書を読んだ価値があった。これは人間は猿の親戚だという残念なお知らせを補強するものだけど、だとすれば、どのように他者と接すればよいのかを考えるきっかけになった。人間の本質が分かれば、対処法も思い浮かぶのでは。人間関係に悩んだら読む本。私が接客業になったら、職場の仲間とこの本の勉強会でもやりたい。

アメリカ自己啓発系本の系譜は戦前、上記のカーネギーから始まり、戦後にナポレオン・ヒルを経て、コヴィーに至ると勝手に考えているのだけど、この順番に読んでいくと、アメリカ現代史のようで面白くもあり。ナポレオン・ヒルの本があまり心に響かなかった私としては、 7つの習慣に書かれている、人間として生きるための基準の高さ、その思考の精緻さは宗教に匹敵すると感じた(著者はモルモン教徒だが特定の宗教に依存しないよう注意して書かれている。ここ「え?アメリカ人てのは全員白人でキリスト教でしょ?」という暗黙の了解を感じるカーネギーと違い、書かれた時代の違いだと感じる)。この、生きる上での高い基準はもしかしたら一生掛かっても実践できないかもしれないと感じた。しかし7つの習慣のうち、最初の2つだけでも出来たら大したものだ。周囲からは人格者、と呼ばれるかもしれない。
インサイド・アウト(内から外へ)の原則、つまり、人に何かをさせたかったら、まず自分が先に変わらなければならない、その後、自分の影響の輪を周囲に広げよと。これは全くそのとおりであり、人間社会に紛争が絶えないのはその逆、アウトサイド・イン(外から内へ)を前提にしているから。もしあなたが強姦罪で捕まったとして、法廷で自己弁護をする時に「あの女がいけないんだ!あの女がいやらしい格好と体つきをしているからだ!」と言って、責任を他人に押し付けて、それで裁判官が納得すると思いますか。しかし周囲を見渡すと、責任を他人に押し付ける人間ばかりで辟易する。「あの国が核ミサイルを持つからうちも持つ。何かあったらそれは全て向こうの責任だ」という。イスラエルや南アフリカなど、政治的に難しい地域に住んだことのある著者は、アウトサイド・インの思考法で問題が解決した例が一つでもあるなら教えてほしいものだと考える。

周囲ばかりが気になり、周囲に反応し続けて生きる、それが問題なのだという認識は仏教と一致している。反応的に生きるよりも、主体的に生きよと著者は言う。主体的な生き方とは「私は〜でありたい」と思い、実践する事であり、「私は他人との約束を守る人間でありたい」「私は良い親でありたい」といった、まず自分が先に、自分が決めた原則に従うという生き方であると。その影響の輪を周囲に広げるとは「私はこうある。だから、よろしければあなたもこうあってくれませんか?」のような。これがインサイド・アウト(内から外へ)の原則。だから刑法上の死刑というのも私にはアウトサイド・インのいびつな思考に感じられ「お前が悪いんだ!お前が他人を殺したから、私もお前を殺さなければならない」という、前述の強姦犯と同じ理屈である。インサイド・アウトであるなら「私は殺さない。だからあなたも他者を殺さないでくださいませんか」が正しい。よく、死刑反対論者に対する攻撃として「お前は家族を殺されても同じことが言えるのか」と、鬼の首を取ったように言う人が散見されるけど、もちろん辛くても言わなければならない。感情に流されない、原則中心の生き方とは命懸けなのだと感じている。しかし返す刀で「お前は冤罪で死刑になっても納得して殺されるのだな?」とやり返すけど。