何故美しさが重要なのか:難民キャンプから偶然に学んだ教訓

時々、まるで機能性こそがソフトウェアデザインで一番重要なものと感じられることがある。しかし美に焦点を当てることで、エクスペリエンス全体を気にかけていることを示すことができる。

Hiroshi Takeuchi
9 min readJul 16, 2015

2013年の秋、建築事務所「TamAssociati」の共同創業者であるRaul Pantaleoは、Curry Stone Humanitarianデザイン賞を受賞した。デザインと建築を担当した、スーダンやシエラレオネといった戦争被害地域に建てられた難民キャンプ等のヘルスケア施設の功績を称えられたのだ。

Port Sudan小児科クリニックの公共テラスに作られた木製のブラインド。Photo from Massimo Grimaldi and Emergency.

彼のデザインは機能的であると同時にサステイナブル、またそれだけではなく並外れた美しさを持ち合わせている。このような過酷な状況下でこういった美しいものを目にするなんて誰が想像するだろうか…あるいは美しさにプライオリティーを置いていることに対して疑問を持つ人もいるかもしれない。何故こういったプロジェクトで美しいデザインにこだわる必要があるのかと彼に尋ねたところ、彼はこう説明した:

「美しさとはあなたと患者は等しい存在であることを彼らに伝える最も重要なメッセージなのです。」

私は彼のこの考えにとても感動した。それは私がGoogle、YouTube、そして今はFacebookで何年にもわたって極めて実用的なデザインを手がける中で悩んでいたことに答えを与えてくれた。偉大なデザインというものは真の問題を解決し、人々の生活を改善する。また、最小限の手間さえ払えば良いものだ。でも多くの企業、特にテック企業は美しさとは本当に重要なものなのか、いつももがいている。もしこのストーリーの最初に書いた2つのことが正しいとすれば、人々が満足することはないのではないだろうか?

答えはYESでありNOである。どんなにソフトウェアの一部が美しくても、使いづらかったり役に立たないソフトウェアなら長期的な視点で意義あるインパクトを与えることはできないことは明白である。人々につかの間の美的満足感を与えることはできるかもしれない、でも高果糖コーンシロップのダイエットみたいに、そんなものは長くは続かない。結局もっと重要な、もっと価値のある、意義のあるものが必要なんだと気づかされるはずだ。

数十年もの間ソフトウェアのユーザーインターフェースのデザインはどうしようもなくに最悪で、ユーザビリティの水準は悲劇的であると同時に喜劇的と言えるほど低かった。ワープロやスプレッドシートのように、新しい機能を追加していくという面白いアイデアもあったが、ほとんどのユーザーはその価値に気づかなかったり、使いこなせなかったりした。Lotus NotesやMicrosoft製品、それに初期の検索エンジンはそういった製品の良い例だ。レゾンデートルに十分に焦点をあてられずに作られた製品…そういった製品は機能過多で、使いづらい、または複雑すぎるものとなり、人々はその機能の数%しか使いこなせなかった。勿論ユーザーはもっと良いものを求める術など知らなかったし、製品はある程度のマーケットシェアを獲得していたので、いずれにせよ多くの選択肢はなかった。

数年前Googleで働いていた時、デザインチームは何でも磨き上げすぎたり、「デザイナリー」でありすぎることがないように説得された。周りからそういう風に説得されるのには3つの動機があるように思えた…まずハイレベルなデザインに磨き上げることで製品の開発期間が長期に及ぶ可能性があるという恐怖である。当時はまだwebブラウザーに使うテクノロジーが初期のもので未発達であったため、それは正しかった。2つめに、製品のヴィジュアルデザインを向上させることで(同じくらいに重要な)処理速度が遅くなる可能性があった。そして3つめに、当時のGoogleは人々に、機能性よりも美しさを重視した企業だ、と思われたくないというプライドがあった。まるでアーミッシュのテックムーブメントといったような質素な美しさを固持することで、私たちはパワーと機能性に真剣だと自分達に示すことができた。私たちはGoogle Doodles を続けることで、シリアスになりすぎず、ふざけた感性を持ち続けていることを示してきた。同時にプロダクトエクスペリエンスに関しては、いわゆる余計な装飾のようなものをなるべく排除してきた。

人々は私たちの製品を好きになってくれた。他の検索エンジンに比べたらGoogleは本当によくできていたからだ。事実、90年代後半と比べると今は成功した後のGoogleしか知らない人々がほとんどで、そういった人々は検索体験のハードルが非常に高く、それが当たり前となっている。Google検索エンジンの目的である明確性と信頼性(Googleのページにアクセスすれば、することは一つしかない。あなたは調べたい言葉を打ち込んで、ほとんど毎回答えが見つかる)は絶大で、革新的で、一時期人々はGoogleにもっと良くして欲しいなんて思わなかったし、人々はこれ以上Googleに何をお願いすれば良いのかもわからなかった。

そしてiPhoneが登場した。私たちはミニコンピュータ、カメラ、電話、全てが一つにまとまった真の決定打といえる凄いモノに出会った。そしてそれはとてもうまくいき(当時のマーケットのどの電話よりも並外れて直感的)、神かけて美しいプロダクトだった。セクシー。人々に最高の体験を与えてくれる。誰もが欲しがる。そして突然、私たちの使っていたソフトウェアが、まともだと思っていたものでさえ、すごく…醜く退屈に思うようになった。価値のないものになってしまった。もしGoogle検索が1998年のデザインでサービスを今から開始するとしたら、全く異なる形で人々に受け入れられるだろう。

人々のクオリティーに対する期待が根本的に変わってしまったのだ。私たちはクオリティーの高いプロダクトに慣れてしまって、他のソフトウェアにも同じようなクオリティーを期待してしまうのだ。

公平に言って、役に立つものもそうでないものも私たちが使っているテクノロジーはこの20年で多くのものを改善し続けている。今日のデザイナーとディベロッパーはwebブラウザーと携帯電話でバリエーションに富むツールキットを使うことができる。だから私たちは15年前のインターフェースで今どんなことができるかなんて話はするべきではないだろう。それと同時に私たちは今デジタル製品の次のフェーズの交差点に差し掛かっている。人々が期待する、もしくは期待以上の生活の様々な局面で使われる高品質なソフトウェアを作るにはどうすれば良いのだろう?過去の醜き時代に作られたソフトウェアを、どうすれば輝かしい時代でも使うことができるのだろう?

私たちはクオリティーの高いデザインシステムとヴィジュアルデザインのスタンダードに投資しなければならない。Google がマテリアルデザインを作った時のような努力は、企業はソフトウェアデザインの美しさをプライオリティーの高いものとして扱うことができることを示している。私たちはエンジニアリングチームと協力して、ユーザーが納得するスピードで動作し、フィットするインターフェースのゴールを作らなければならない。そして私たちは、プロダクトを使う人々や彼らの抱える問題によって美学というものは異なる意味を持つ、ということを理解しなければならない。

私が今注目している産業 — ビジネスソフトウェアのデザイン — では、クオリティーと美しさのスタンダードはとても低く、製品を作る上で必要ないもののコストはとても高い。生産性を失うだけではない、もしそれがジャンキーな(完成度の低い)製品なら、おそらく顧客はデータの妥当性や私たちのバックエンドシステムの信頼性を疑い始めるだろう。私たちは自分の仕事によって、製品のクオリティーを高めたい…そうすればプロダクトは良くできた、期待通りの、信頼できるものとなる。ところどころに誤字がある重要なエッセイのように、技術の欠如は、それ自体とは無関係なはずのアイデアのクオリティーに対する自信を失わせていくこともある。

究極的には、製品は人々に機能を提供するだけでは不十分なのだ。私たちが試行錯誤の末に採用した細部のディテールで人々をあっと言わせたり、喜ばせる必要があるのだ。私たち自身も、価値のある、便利な、美しいものを作っているときは、期待よりもさらに上を目指す好循環を作り出すことができるのだ。

これこそがTamAssociati建築デザインが私たちに教えようとしていることだ。美しさとは私たちがデザインする人々への最も重要なメッセージである。私たちと彼らは対等な存在で、彼らがどのように感じるか私たちは深く考えてデザインしているのだ。

デザインの巨匠であるPaul Randがこんなことを言っていた、「人々は良いデザインよりも悪いデザインに慣れ親しんでいる。悪いデザインを好むように慣らされている、といったほうが事実だろう。悪いデザインに囲まれて暮らしているのだから。」Paul Randは間違っていると主張するのは無謀なことかもしれない。でもみんなでそう言えるように、良いデザインが増えるように努力してみないか?

このストーリーは元々はwww.fountly.com に掲載されたものです。

最高のカバー写真を提供していただいたhttp://magdeleine.co/ には感謝します。

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Hiroshi Takeuchi

Medium Japanでボランティア翻訳をしていました (現在は違います) 。ここに書いてある記事はすべて当時に翻訳された記事です。私個人の見解または創作物ではありません。引き続き公開はしますが、質問または訂正リクエスト等は受け付けません。ご了承ください。