毎日、新人。

富士吉田という富士山の麓のまちで、機織り職人をしています。

ここで何十年も機織りをされてきているベテランの職人の方々は、誰もが口を揃えて「毎日、新人だ」と言います。

最初は謙遜かと思ったけど、そうじゃないんだと感じるようになりました。

機械で機織りをしていますが、よく全自動で狂いがなく簡単に作業ができる、大量生産をイメージされますが、地方での小さな工場ではまったくちがいます。人がいないと成り立ちません。たくさん手間もかかります。

その日の気温、湿度の変化だけでも、織機はすぐ異変を感じて止まったり、よこ糸が切れたり、縦糸が切れたり。それを繋ぐのは人の手です。
よこ糸のテンションが少し変わるだけでも、傷を織ってしまうこともあります。
織る織物によって、使う糸も太さも変わるので、そのたびに、糸が通る道のおさえ具合を微調整したり、工具を使って糸をはなす・切るタイミングを調節したり、ギアをかえて織物を打ち込む数を変えたり。

また、高速で織ればたしかに生産性も上がるけど、確実に風合いが変わるし傷も織られてしまうことが皆よくわかっているので、あえてこれ以上落とせないほどの速度で織っています。わたしのいる工場では、1時間に1m織れるくらいの速さです。

経験と感覚を総動員して、数ミリ単位の微調整を人間がしながら、目を配りずっとそばで見守りながら、だれかのもとへいい織物を届けるべく、しごとをしています。

機織りだけでなく、染めるのもそうです。
化学染料でも、糸は毎回染める度に、まったく同じ色は出せないそうです。
濃度によって染料を調整し、染めやさんによって使う水の量も違うといいます。

糸を撚る工程や、経糸を巻く工程、仕上げる工程でも、全部人の経験と感覚による微調整がないと、まったく成り立たないのです。

そこでは、毎日毎日がその日にしかない状況下で、その違いを感じ取ってしごとをする必要があります。

そもそも、地球にいて、毎日変化する空気のなかで、土地の水を使い、なにより生きた人間の手でしごとをしている。機械だって気温や湿度によって動きも影響される。昨日と同じ、なんてそもそもありえないんだ、と当たり前なことにあらためて気づかされました。

糸のテンションの調節の具合が少し変わるだけでも、織りあがった生地の色合いにも差がでる。
機械のたくさんのねじのうち、一つゆるむだけでも大きな影響力をもつ。

様々な要素が同時に存在していて、影響しあっています。

なによりも大事なのは、
その毎日、毎瞬の変化に、いつも気付けているかどうか、ということ。
いま織っているものをまっすぐ見つめ、感じ取って、その状態を把握していること。
その上で、人間が微調整しながら、理想の状態に仕上げて、待っている人のもとへ届けられるようにすること。
それが、職人の仕事なんだというのが、いまのわたしの認識です。

たまに、仕事慣れましたか?と聞かれることがあるけれど、一生、「慣れました」と答える日は来ないと思います。聞かれるたび、自分の気持ちを引き締める気持ちになります。

まったく同じ、ということはほぼない。

その違いを、いつも感じられるように、感度を研ぎ澄まし、持ち続けたい。

それは職人に限らず、生きていることすべてにもいえるんじゃないかなと思います。

毎日の生活でも、自分ですら、細胞も生まれ変わっていて、昨日を経た後の自分であるわけで、その時点でもう同じではないんだなと。

仏教での、無常、とはそういうことでもあるのかな?と、無学ながら、思いました。

似たような日、同じように感じられる日はあるかもしれないけど、それは感度が低いというか、感じ取り方が粗いだけなんじゃないか。

頭で決めつけて、目の前で顕れてくるものを見つめていないんじゃないか。
変わっていないと思っているのはただの幻想なんじゃないか。それはむしろ、不自然なこと。

すべての微細な変化をいつも感じ取って生きるのは、ある意味しんどいかもしれない。
でもその彩り、変化しつづけるもの、輝きをしかと見るタフさは、生きているからこそ持っていたい。そんなことを、思います。

これまで、無常、というと、栄枯盛衰とか、はかない・失う、そんな諦めのイメージを漠然と抱いていたのですが、
そもそも、いつもあたらしい瞬間が繰り広げられていて、そのたびに目をそらさずに、前向きに取り組めばいいんだ、と違った捉え方ができるようになりました。

どう向き合うかは、いつでも、自分で決められる。

この幸せな状態が変わらず続いたらいいな、ではなく、
毎日、毎回の瞬間で、自分が向き合ってつくっていくもの、なのだと思うし、
それは可能なことなんだと思っています。

いま、を精一杯、生きていきたいです。