最後まで反面教師を貫いてくれた親父との過去を振り返る。
結婚
結婚して長男ができた頃
親父の知人と営んでいた自動車修理工の仕事が行き詰まり、自動車整備工場に就職していた。
そんなある日
沖縄の風習でお盆と正月の時にだけ集まる祖父の実家を管理している、祖父の弟から連絡が来た。
“居酒屋で会食しながら和気あいあいと、楽しく話したいことがある”と。
祖父の実家はど田舎にあり、仏壇があるだけで誰も住んでおらず、一般的には廃墟と呼ばれるような状態だった。
畑が広がる中にポツンと雑木林があり、その中の廃墟の中に仏壇があるというような状況
戦争で兄弟をなくし、なぜか祖父の弟が引き継いでいたらしい。
広い土地とはいえ、ど田舎の手付かずの雑木林の奥にある廃墟なのである。
土地はかなり広かったはずだが、いつの間にか所有している範囲は確実に狭くなっていた。
子供ができてから祖父にはたまに会っていたので話は聞いていたが、利用価値のある通り沿いなどの場所は既に売却済みのようだった。
その廃墟を引き継いでほしいという内容だった。
祖父の弟には男の子に恵まれなかったため継承者がおらず、序列で私に回ってきたらしい。
親父はこの人たちとの付き合いをなぜか大事にしていて、私にもそこには毎回必ず行くように言われていたが、その理由がようやくわかった気がする。
しかしその会食にはなぜか親父は呼ばれていないようだった。
居酒屋で会食しながら和気あいあいと、ボイスレコーダーで録音されながら行われるとても楽しい会食の中、丁重にお断りした。
その中で、とある親族から気になることを言われた。
「そういえば、あなたの新しいお母さんみたよ。中国人の方。」
噂には聞いていた話だった。
空港の入国管理で一度拘束されたとかの噂も。
自分には関係ないし、関わりたくない案件である。
いろいろな結婚の形を教えてくれた。
保険
2人目の息子が生まれた頃に祖父も亡くなってしまった。
それから少し後の頃、義義弟から連絡が来た。
この頃、継母と出ていった義義弟はヤクザになっていた。
高校に進学することすらできなかった義義弟。
高校には行かず、親父が没頭していた麻雀店(?)でバイトをさせられていたらしい。
そこでの人脈を存分に活かし、順調にその道に歩んで行ったようだ。
親父はそんな義義弟を気に入っていたようで、割と連絡を取っていたようだった。
私は自然と義義弟との距離も置いてしまうことに。
親父が脳梗塞で入院したらしい。
麻雀仲間の男性が病院に連れてきてくれたようだ。
病院へ行き男性の話を聞くと、親父は保険を滞納しているので保険が使えなくて、大変なことになっているとの事。
思えば高校時代、手を骨折した時も毎回実費で払っていた。
コンタクトレンズを買うにも処方箋なしで売ってくれるメガネ屋さんを選んでいた。(当時は割とあった)
病院の相談窓口で相談するのことになり、小一時間、高額療養費制度のことを教えてもらった。
なんて素晴らしい制度。
私は当時加入していた個別の生命保険を解約した。
20代の会社員には不要な保険であることがわかった。
親父はこれを伝えたかったのだろう。
親父と制度のことについて話し、保険料の滞納額も払えない金額ではないのでなんとかなるという話をした。
その後、家のことを話した。
私が中学生時代に購入した6名で住んでいた家に今も一人で住んでいた親父。
家族はみんな自立しているし、一人なら家を手放した方が生活は楽じゃないかと話した。
すると親父をここへ連れてきてくれた男性からも同じことを勧められているとの事。
数日後の退院予定日、滞納していた保険料金を用意して再度病院へ行くと、いなくなっていた。
予定より早く回復したので付添の男性とともに退院したらしい。
数年後
いつのまにか中学高校を過ごした親父が買った家が綺麗にリフォームされていた。
そして、かつて親父が所有していた別の土地にも立派な家が立っていた。
もちろんそこに親父は住んでなかった。
連絡先もわからなければ、思い出の詰まった帰る場所も完全に無くなってしまった。
自分も勧めたこととはいえ少し寂しくなった。
家は持とう。
IT関連に転身してオフィスワーカーとして働いていたある日のこと。
高校時代に家に出入りしていた親父の友人の一人から連絡が来た。
今度はフィリピンで倒れたらしい。
フィリピンの奥さんが面倒を見てくれているので何かあれば頼むと。
フィリピン?なぜフィリピン?中国は?といろんな意味で困惑していたが、幸いそれから連絡は来ることはなかった。
それから数ヶ月後
今度はなぜか自宅に警察から手紙が入っていた。
郵便ではなく、直接投函されていた。
「聞きたいことがあるので連絡をください」
何かやったっけ?っとびっくりして慌てて警察に行くと、親父のことを探しているらしく、知っていることを全て話せという趣旨だった。
しかし、音信不通で連絡先もわからないし、中国人と結婚してたり、フィリピンで倒れたと言われたり、よくわからんと言うと、それ以上何も教えてくれないまま話は終わった。
中国人奥さん、フィリピン人奥さん
いい年になっても幸せそうである。
しかし、警察はなぜ親父を探していたのだろう。
生活保護
それから数年後
今度は役所から手紙が来た。
生活保護の支給にあたっての確認の手紙だった。
その時私は子供4人、家族6名で2LDKのアパート暮らし。
電話くらいはしたいと書いて調査票は返したが、それに対して何か来るわけではないようだった。
連絡先もわからないまま数年が過ぎた。
義義弟から連絡が来た。
またどこかで入院しているらしい。
今度は沖縄の病院らしいが、フィリピン人の奥さんが介護してくれているらしい。
電話を変わってくれた親父が一言
「つかさか?」
それっきり、電話の先で泣き崩れてしまっているらしく、何も話すことはできなかった。
それから数ヶ月後の数日前。
心配になり、仕事の合間に役所に電話した。
時間外で取り扱ってないのでかけ直してほしいと。
数日後
また義義弟から連絡が来た。
亡くなったと。
最後は何を伝えたかったのだろう