鏡をじっと見つめないこと

俺のブログの、たくさんの雑なレトリックと、スパゲティ化した脈絡は、素材の味を最大限に引き出すための代償。それでもいいなら読んでけってんだ。(嫌ならWIREDでも読んでる方が100万倍マシだよ)

ところで。ともすれば自己啓発の言説が大音量のメガホンでガンガン鳴り響くような社会になってきた。何かと騒がしい世の中ですな。

いついなくなったのか問題

地方創生なんてスローガンが掲げられるようになって久しいが、一体、いつ地方が死んだんだ、と思わずにはいられないほどに喧伝される場面があり、個人的にはあんまり好かない言葉だ。どんな歴史にも盛衰があって、それを中央がやかましく騒ぎ立てすぎるのはかえってさらなる盲点を生み出しているのではないかと思ったりもする。

とまあ地方創生ルサンチマンマンはここら辺にして、今日話したいのは自分性についてであるよ。

俺が「お、まじか、ラッキー♪」と思った最近の社会の潮流といえば、『個』の重要性を認識しよう、みたいなやつだろう。しきりに社会は、傑出した、今の社会にミスフィットな人材を探し求めるようになり、それに追われる側の若者たちも、自分はどこにいるんだろう、自分とは一体誰なんだろうと探し求めウロウロ彷徨っているという、なんとも奇妙な構図が演出されている。

当の私はといえば、物心ついた時分から、あれやこれやと激しく妄想しては(別に破廉恥なことだけではなく)ブツブツと自分の中で独り言をつぶやくみたいな習慣があった。しつけも多分に俺の人格形成に影響してることは言うまでもない。他の家庭で許されていることは、俺の家庭では許されていない。設定から装備から全てデフォルトが周りの人間と等質なちびっこ社会では、なかなかにサバイバル要素を必要とする人生を歩んできた。

自分が誰なのかとかどんな人間なのかってわかるには、可能な限り早い段階から自分を認識できている必要があると思う。いや、自分を認識しようとトライすること、といった方が正しいか。

子供にむやみやたらと協調性を教えてはいけないように思う。協調性の中で育つと、どこで個を出せばいいのかわからなくなる上、日本の社会にはそれでもサバイブできるコースが用意されてしまっている。協調性=没個性の定式化が、あまりにも社会を単一化してしまったこと。これは、由々しき事態。

個性を引き出す教育を、早いうちからした方がいい。個の世界と個の世界がぶつかり合い、折衷され妥協することで、協調は図られる。こうやって泡と泡がくっつくみたいにして、世界は膨らんでいく。子供たちがやっているのは、残念ながら個々の泡を決して潰さないようにして寄り集まっていること。お互いのことをなんとなくわかっているようで、わかっていない、浮遊したような状態。

たくさんの人が、社会に浮遊している。それを眺めていた俺は、自分なりにもがき、しっかりと地に足をつけて歩くための力を、徐々に蓄えていた。今までは、反面教師の面々が歩いた道を辿ってしまわないように気をつけていただけで、特別自分が何かdistinguishedだったというわけではないように思う。それでも、「周りと違う」という実感が「自分」という寄生虫みたいなのの存在を確かなものにしている。どこかにある。そしてそれはなんらかの形で物理的な自分に語りかけ、自分を名実ともに自分たらしめている。

鏡 -何が見?

20年弱が経つ。今までやってきたこと、やってること、考えてることをいろんな人にぶつける。すると大体はこう返ってくる。「そんなこと考えたこともなかったな。すごいね、まだ一年生でしょ?」

客観的に見てある社会からすると俺のやっていることは進んでいるらしい、あんまり深く考えたことなかった。俺の実感と俺が帰属していると考える社会においては微塵の価値もない(可能性がある)ことなのだから。

一体自分がどういう社会にリフレクションを受けるのか、これは意思決定や裁量が様々な場面で求められるこのフェーズにきてかなり重要度を増すと思う。今まで自分が作ってきたあるいは属してきたコミュニティの中で、どれが最善でどの辺がうまくコラボレートできそうで結果としてどうすれば自分と組織の成長につながるか、考えなくてはならなくなってくる。

何をアサインされようか、の決断のレベルが確実に引き上がってくる。みんな同じ、ただ人より早く手をあげるか遅くあげるかの二択、ではなく自分が最もバリューを発揮し、チームに貢献できるのはどこか、と言う発想へ。ここが、自分をよく知っていることの利点であると思う。いい意味で、立ち位置を見つけ出せているそもそもわかっている、なんてことは稀である。

むしろ、立ち位置がわかっているからこそ、どこにいるかわからなくなっているんじゃないのか。気づけば自分はいつもそこを選んでいて、その理由を追求したこともなければ、当然意識的に選んだこともなかった。

そこで初めて、いなかったはずの自分が存在していることに気づくけど、一体何者なのかがわからないから、必死になって鏡を覗き込んでは、一体自分が誰だったか、一生懸命に考え始める。それでも結局鏡を見るまでの自分が真実だと思い込んで白雪姫の継母に終わる人もいるし、その問いだけに右往左往してしまって茫然自失とする人もいる。あちゃー。自分なんか探したって、今と過去の自分しか見つからないんだよ。誰もが鏡で今の自分を見たことがあるし、過去の自分を見たことがある、すなわち過去に自分を鏡で見たことを知っている。でもその時の自分は全く自分を知らないし、知ろうともしていない。知らないものについては、実体としてのつかみ所が足りなさすぎるし、多分いないんじゃないかな。鏡、何が見、何が見えた?いや、見えてない。何かがそこにいるってだけ。

鬼しかいないかくれんぼをやるには、人生はあまりにも短いじゃないか。

きっと、周りを見渡せば内省的に自分を探すよりはるかに手っ取り早く自分の在り方に気づけるモノが転がっているはずなんだ。その機会を大切にして、少しずつ目に見える何かをアウトプットし続けて、何か新しいことに気づけたらいいじゃないか。自分の中に帝国を築きあげようとしなくていいから、そっと触れたら壊れそうな砂のお城の、土台作りに一生懸命になってもいいじゃないか。日が暮れて潮が満ちて波に流されることだってあるんだ。でもまた朝日は登ってくれるじゃないか。だからほら、ふてくされちゃいけない。

鏡にじっと向かい合ってる暇があったら、さっさと支度して出かけてくるんだ。君が世界を嫌いになっちゃう前に。

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