ただ過剰であることの理由で


「朝の満員の電車の中に、犇めくお互いの中にわきいでる無意味な憎しみ、肌と肌をこんなに密着しながら、顔と顔をこんなに寄せあいながら、お互いに理由なく水のようにみなぎっている憎悪の中に沈められている。『おはよう』というかわりに、東京では数百万の人がこの憎しみの中に浸され、『おやすみ』というかわりに、また数百万の人がこの哀しみの中にもまれて、その一日を過ごすのである。歴史が始まって、こんなかたちの人間の集合があっただろうか。お祭りにせよ、戦争にせよ、もっと散らばり、もっとはっきりした感情の理由をもっていた。ただ過剰であることの理由で、こんなに憎しみ合っている人間の集合は、いずれの文化段階にも存在しなかったであろう」 中井正一


ものがたりというのはhysteron proteronなんです。それは人の感情を喚起するにおいては効き目が非常にある。だけれども不当仮定の虚偽であることには変わらない。敗戦後の光景は新しい時代であるばかりではなかった。開放感の裏にもう憎悪が存った。

ものがたりというのはhysteron proteronなんです

この憎悪は戦前からの、否、日本有史以来のそれが一斉起爆した開放された光景でもあったと私は惟うのです。来客が食事時にさしかかってしまう。だがお帰りくださいとも言えない。用事がありましてとも言えない。「お腹がおすきになられたでしょう、どうぞ召し上がってください、いま準備してますので」───。そこで客人が「そうですか、それではお言葉に甘えまして」。もうここで憎悪は発する夜を日についでの日本の心的な問題がありますね。無論、このやりとりが非常に憎悪を生じさせるにじゅうぶんなのは、用意なぞはしていない、できていないこと、客人もどうしてよいかわからないこと。この双方に押し問答がくり返されるのです。そして結局日本の場合、客人は食べていくことになる。この反対は殆どがない。そうしますと用意なぞしていない主人側はキッチンかなにかに戻って、「ずうずうしい客だ。食べていくって」と吐き捨てるようにいうか機嫌が悪くなる。ここでもっとも簡単な憎悪は生じるでしょ。地にそもそも憎悪があると私はおもっています。ですからあのオモテナシという五輪招致のキャッチフレーズにゾッとした一人でもあります。


本題に戻りまして、そしてこの憎悪の一時の開放感は日本人の集合の心的部分を決定したかも察れません。混迷が起こる度に憎悪が起爆してくる。また誘爆させ得る「こんなかたちの人間の集合」が1980年代世代の憎悪といったものを種子として準備されてきたいまがあると私の対日観のなかに屹立してくるわけです。なにが過剰であるのか───。互いが互いに関わらぬようにしようとすれするほどの反転した過剰のなかに、これもまた原因を反転させ日本のみなさんが及考うぃ考究を協し再建をはからなければいけない。

ニッポン社会はその足元から崩れるを急速にしている

きょうの投述でも、ニッポン社会はその足元から崩れるを急速にしていると書きました。議会は最たる反映として弛緩が抑え切れなくなり決壊はもう始まっております。そして企業もなにもかもこの弛緩が速度を増す気配が強い。
日本のみなさんの当事者意識への復帰を切に希望せざるを得ません。

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