〔バブル・コード〕とはなにか?

〔バブル・コード〕という2016年の問題提起をしました。日本から伝えられる言論や発言そのほか表現の自由を巡って起ている諸相を診ますと、どうも旧ソ連及び東欧を始め、AALAの抑圧の時代(そしてそれらは現在でも世界に残滓しておりますが)の権力によるものとはだいぶ違う性格のものだと常々意っていたからでもあります。
実はそうではなく、<バブル・コードという日本の志願囚人的なことばの封殺合意>のよるものではないか。根拠なき自力概念と陶酔感の自惚れのVain Gloryがあの<1980年代世代とその系譜>の特徴とするなら、それがもたらしている社会的な、習慣は性格となるものであるという私見からであります。

バブル・コードは私的世界の根拠なき自力概念と陶酔感の自惚れのVain Gloryを精神的態度とすべに対するその尺度を特徴とする

1980年代の自他にその時々、瞬間瞬間に赴くままに強いる禁句・禁考と表現態度が一定の社会的な規整を受けないからこそ起こる大まかな暗黙の範囲といったものが不自由に自他を準拠枠とする。社会が昏迷すればするほど、その枠はより狭まり強くなってゆく───そのようなものだと考察するのです。またそれは半ば確信に私はなってきています。
なかには自分だけはあらゆる表現───罵詈雑言を主とした───は可であってそれ以外の同属には滾るほどの憤激を私のだけのものとする無規整といった現象が数多顕になって出てきている十年なら十年があるでしょう。これらは各界のトップから、上下与野をに蔓延し尽くすニッポンがあるし、このことがニッポン社会のいっそうの社会生存の居場所と可能性の奪い合いをもたらしている。それが1980年代とその世代、系譜によるこれからの日本の生存に関する問題であるのではないかということです。
このような社会は体系を持ちません。ために体系を拒絶する社会です。それが証拠には歴史を自分の都合(各々のレヴェルに応じざるを得ない)よくその時々に引っ張ってきては出鱈目さへも、個人の自由だとまで称しては、理窟となすことに曝け出されて私たち世界にそのままダイレクトに伝わっている一部始終にも歴然としております。

「歴史的現実に根ざす、過去の複雑性、現在の多元性、未来の不可測性を前提としながら、幻想を抱くことなく、その本質において体系的であり、不確定的であることを認めることが重要である」

¹ 過去の複雑性
² 現在の多元性
³ 未来の不可測性

これを組み立てることによって仕上がる社会的な政治的な経済的な形式と内容───これが体系であります。これが持ち得ない社会は空中分解せざるを得ないのです。

日本がそのこれからにSomething Newを加えていこうとするのであれば、三つの前提を若い人びとが体系する努力を行えるか否かにかかってきます

〔バブル・コード〕は、そのすべてが私的な精神状況から生じ、その精神状況とは自らの触れて欲しくないこと、触れてはらないことへのコードにすべてを回収させ禁止し封印します。これが日本的実態である。ですから権力の恣意的な表現の抑圧ではなく、1980年代とその世代の特徴とする心的世界からのものであると言るというのが私の対日観なのです。
この習慣は性格となるを解決することは極めて難しい問題です。ですがこれを解決しなことには日本に次が来ないのも厳然たる事実でもあります。

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