哀しみのバラードが上書してゆく燃える秋

哀しみのバラードが上書してゆく燃える秋───。 音楽のお委しい方ならこの意を解していただけるものとおもう。 そのように上書きしてゆく頭から離れない執拗低音といったものが人はもとより社会にもある。歴史は繰り返すというありふれたことばがあるが、それもまた人間と社会にとってその音がそれを形作り人間内部の真空を埋めた音であって、その音は偶然であったとも、また人間が欲していた音と極め稀な奇跡の一致があったからとも言え、であるからこそ、人間とその社会はそれぞれの歩みにおいて、繰り返し続けるのかも察れない。 都市国家から領土国家へ、氏族集落から民族そして領土国家へ。 世界各国はその成立に異なる道を歩んだ。そのなかで繰り返しを周期に反復する。分けてもそれらの成長に欠かせないのは外界との接触の質と量によって規定される。量的規模がより大きく、質的規模が高ければ、領土国家への到達を可能たらしめるものである。

退行的跛行的なかぶきが随所に顕な日本をどう視ればいいのかという私たちの日本問題に関して、いまどれほどの研究の質が保障されているかといえばノンでさへある。

外界との接触の質と量とは交通であり流通であることは論を待たない。ここに日本的後進性が顕になりつつある問題が生じている。 つまり世界交通の圏外に事実上佇むことを余儀なくされた日本国内のあらゆる状況がそれであり、自らそれを択んだというより、自然のあるがままの姿たる日本列島の位置というものは、炬燵と日本人の関係に似て、いったんそこにもぐるとなかなか出ようという意力を生じさせないに似ているかも察れない。 世界と日本の交通量は膨大である。だがそれは純然たる交通量のことであり、ほんらいの流通がもたらす質と量を日本が受け取っているか刺激されているかというとまったく違う。精確に言えば、刺激がありすぎた所以の無刺激性の耽溺ということに言える。つまり刺激が麻痺してしまった状態ということだ(であるからTwitterでもAmericanがたまさかに日本語を使うことによる国家同一性障害的混同、または越境して語るという境界線の不在といった些細なことにも、この無刺激性は視認できるのである)。古今東西の歴史が証しているように、無刺激の民族及び国家は世界から除外されてゆき、そのほんらいの後進性を顕にし始める。この後進性はそれぞれの民族的特徴で上書きされているため、自身もその後進性に気づかず、後進的自身の時代を再現し始める。私が現代に甦る中世的日本というのはそれを示唆しているし、1980年代世代の歴史的な総括にもつながってゆく。民族というのもが先天的なものではなく形成されるものであるに逆行する先天性虚妄が生じるのも後進性によりものである。愛国心の強調もおなじであろう。

日本は刺激のある社会ではない。刺激らしきものが過剰なまでに刺激的であるがための無刺激性の社会だと言える。そして無刺激さは外界との接触を避け、世界交通から自らを除外する道へ進む。これは日本全体の顕であってどのような主義主張の違いも、考え方の違いも関係なく、日本全てがそのような状況だというのが私の上書きする対日観である。

刺激に刺激が上書きされ続ければ刺激を感じなくなりそれは無刺激となる。無刺激となれば外界との接触の要を認めなくなるのも当然であって、結果、日本は無刺激性下に、世界の交通から除外されるという経緯を私たちはこの廿年に目撃してきた。 国家がその活動を活発にするには、外界との接触の質と量を高め巨きくすることなしには有り得ない。それを可能にたらしめることはない。 落日の上書きを太平洋上に眺め不図こうしたことを考える。