日本再考 -日本という体制がどの体制に比較して優位であり劣位であるのか?-

日本という体制がどの体制に比較して優位であり劣位であるのか───。
ニッポンとその人びとは世界から自分たちがどう診らてれているかを非常に気にしながら、その見られ方が肯定的であれ否定的であれ好みます。それは外界を識らない自らが外界をどう評価するかという自らの感情を好むところから来ているのでして外界は実はまったく関係がないのです。

世界史的にいっても、ロケットをミサイルと言い切って辻褄が合わなくともそれを可とする社会の到達点を私たち世界は或る意味で畏怖します。これだけの情報が世界を疾し、それを送受信できるはずの大衆社会が、閉鎖社会であり得るという前代未聞の列島が私たちには見える。形而上が行くつくところまで行き着いた場合、その破砕、破綻、inversion N reflectionはどこまで破綻を重ねるか───。

またそうしておきませんと居ても立ってもいられなくなるところから───来ています。これは習慣が性格となったマンタリテの一つですが、私がお話したどの体制に比較して優位であり劣位であるのかについては口をもっと閉ざすようになるでしょう。ほんらいは左右いう時であるからこそ左右であってはならない、ここが体制そのものの岐路になります。数年先ということではないかと私は想定しています。日本という体制にも自己主張がある。何々、某国に対して優位であるといった主張です。がしかし冷厳な事実───ファクトは、それが果たして実際に有効であるか無効であるかを客観と分析で検証しなければなりません。それは私たちObserver、Gaijinの課業───日本再考の課題であります。

日本というシステムの崩壊は私たちObserverにとって大きな意味を持ちます。世界史的に言っても、治験的な群衆社会の破綻に関する問題としても日本再考論というのは出て来ざるを得ない。

と同時に体制の崩壊を防ぐには、その体制内に私たちObserverと比肩する、否それ巳上の客観と分析と着手する人がその内的な状況、特殊な社会の原状を直読し解析するのみならず着手することが、日本の人びとのなかで、できるかそれとも放棄して崩壊に任せるかにかかってきます。

日本にオールナタティヴな行動が認められない今、ニッポンにとってはそれこそ未曾有の状況は確実に襲来するはずで逃れられません。
ほんらいは近隣諸国と比較して(しかも事実に即していない、自分たちが勝手に拵えた近隣諸国像に対して)安堵するような体制規模ではないにも関わらず、この一本調子でいくならその体制的優位の自己主張なるものは不当仮定の虚偽のまま内部から内部自身によって瓦解するものです。
この崩壊は世界に大きな影響を与えずにはおけない。ですからニッポンの識らないところでリスク回避の動きは準備され始めているということを忘れてはいけない。