
決定版 <今日的日本宰相像>
日本宰相が就任3年目を迎えました。私が日本宰相とだけ公的人格で書いている理由は当然わかる旁々にはわかっていただいていると意います。日本では私的な批判を私的に向けるという誤った思考様態があり、その時々の宰相名を持ち出しての議論になりがちですが、歴史と時代の観点からみるならそれは違います。そういう見方をすれば大概は意味を持たぬどころか、その役割なり問題が見えないものです。
さて、年末ですからちょっと日本宰相について若干ですが投述します。いわば<今日的日本宰相像>というものです。これが現宰相であれ誰であっても変わらない。
なぜ日本宰相が強いのか───?。そして与党が強いのか?というはなしになります。私がおもうに結論から申せば、ニッポンの人びとの恐怖心からのものだということぢぁないでしょうか。この場合の積極的であるとか消極的であるとか消去法といった尺度はもう有効ではない。日本体制ですね、その社会が分極化すること、ばらばらになることへの危機感がある。その社会経済情勢が混乱もしくはその方向を失いかねない飛行状況下に存るからだという理解が必要です。こんどこそ<束>が外れたなら、体制の安定は一挙に、極度にばらばらとなり低下する───その感覚が人心に無意識的に生じている3年があるということなんです。偶然にして現宰相がその運命───託される運命の人になったということです。
現野党の一部に政権をまわしたら日本人は一挙に不安になりました。またその政権は不安を掻き立てたことはあっても安堵することはできなかった菲才政府であったのです。同時に政治経済社会はその機能喪失の時間を進め、いっそう日本のGrass Rootは、その社会の崩壊ぶりを黙して語らずという欠陥を持ちつつ、現与党へ急旋回することになった。その急旋回は、政治的なそれではない。社会がこのままではとんでもないことになってしまう、経済も───という感情的な動物的でもある感情が急旋回させた。私は<今日的日本宰相像>を考えるにせよ、社会学、社会心理学でしか解明できないニッポンというものをここでも強意します。
「信長さんが三河殿の滑稽な道化を演じる姿をして、『喰わせものよ、あの狸は』と侍臣に漏らし、臣茂は友に『御免願い度いが、致し方ない。お引き受けしよう」と肚を藝した。いまは道化もおらず肚藝もおらず、要は達者がおらない。達者がおらない政治は衰えていかなければならない。達者というのはどこかに余人を抜群する才がある。その才は情報でもない知識でもない、蓄積されたすべての<私>の歩んだ道のりである。誰もというものぢぁない」(「三河殿ハ道化ヲ演リ、臣茂ハ肚藝ヲ演ス」)
いまのニッポンにこれだけの人物を輩出するような社会的土壌がもうない。そのように診ることがリアリズムであります。ですから私は義円の鉄炮聞きの宴のおもいのような既投の再録にそれを感情しますが、達者を輩出しない土壌はこれはもう土壌を改める以外にはないのかも察れない。その改める必要意識ですね、ニッポンが日本に戻るためには、どこかでの危機でどれぐらいの人びとが痛烈にも清冽にも共有できるかにかかってくる。その一念にかかわってくるものだとおもいます。
<今日的日本宰相像> とは安定の仮託の形象です。仮初めでもいい、なんでもいい、この動揺と先行きは一つ<束>が外れたらみなバラバラになってしまう───。壊れてしまう、空中分解してしまう───。そのような恐れと日本宰相は比例している。そこで意味できるのは長期執権は尚可能である道はもう用意され続けているし、されている。そしてこれらに皮肉な見方ができる。
つまり日本宰相は安定を仮託されているが、不安定さを強調しなければその存立事由が危うくなる───ということです。