私情を政治的批判という境界線外で用いてはいけない


威厳不先行於己、則人怨不服。

社会の状態との協奏によって作り出される時代の陥穽というものがそれぞれの時代には存る。その陥穽に自らが落ち込んでゆく人心があり姿がある。日本の人びともその姿を見てきたはずであって、今に共通していることを識別できていなければならないもの。であるなら常にそれら教訓を顧い続け己を律し続けなければならない。これが大人の世界のことである。
昨午、小林節名誉教授の交際について一言敢えて申し上げた。日本に於いてその野党協力に多大の働きをなされ、またその前面に立たれておられる以上は、その行動についてlessons of the pastからその政治的境界線をどのような尺度で引くか、名誉教授のみならず、いつでも、だれもが引き続け自らに尋ねなければいけないものとおもう。


私が対象関係国の個別具体的な政局その周辺には関心を持たぬし、それらが我が耳に達しても承る以上でも以下でもないことはすでに申し上げているとおりだし、Rethinking Japanが私の境界線である。
 その上で遍く常識は申し上げてよいかとおもう。政治に携わる人間の作法に属する基本的な資格に及ぶ要件とおもっていたゞき度い。それは私情で公を私しては一切罷りならぬということだ。政治世界外の人間が醜聞を政治的批判とその方法について使用するのはむべなるかなであり、また政治世界でも同様だけれども、それは政治的批判という境界線以外で用いてはいけない。まして私憤を恰も公憤にすり替えることを試みるのは言語道断な無作法であり、冒してはならに境界線だ。
U・S・Aの我が耳には達するいろいろはあるが───どうも私憤で公を左右したがる大人になり切れない私的感情が多くそれが政治的対立になっているようにおもう。それは政治的対立でもなんでもない。まだ政治的人格の成人を果たしていない。国家の藩塀を如何とするか───その一念に真剣ではない証左だ。
私憤で人を謗れば、その誹り我が身に受け、その私憤の感情ですべての行動理由を為すとなれば到底政治なぞは行えず、成り立たず、いまの日本がそれを明らかにしている。
誰某という叱りではないが───。このような体たらくをし続けていれば、やはり軍が出てくる、過激が出てくる。そして政党政治がゴミ箱行きとなり、関係者は禄を失う。それを覚悟してやるなら───やるならやれ───だ。


きょう一日のU・S・Aを一日現場にいた一人の人間からすると、日本の政界はてんでお話しにならない──。政治的対立のレヴェルでもない私的感情の日替わり定食のような昨日友人の翌日は敵のそれには愕然とするより他はない。レヴェルと世界が違いすぎる。