
見物人たちへの警告
日本の一部報道記者が「(テロリストたちが潜伏しているというなら)なぜパリやブリュッセルを空爆しないのか?」と述べておられる。この連続するテロ行為に対してその問題を多面的に観るなかでの〝異見〟として理解はしようにしても、時局に対する厳しい必要意識という私たちの考え方、意志からするととてもではないが承服し得ないし、しない。実際に私たちはこの地で多数の生命を失ったばかりです。口を慎んでもらいたい。日本はどの立場でもその語る内容のなかに、人命をどこまで感じ取ること、社会のかけがえのなさ───それを瞳のよう に守らねばならない使命感、責任感というものが極めて乏しく薄い。
そうじゃないと言う人もいる。だが実際に公の場で欧州の諸都市を空爆すればということばが安易に紡ぎ出されるのは、やはり命への感情がきわめて薄弱であると言わなければならない。そんな記者は我がU・S・Aにはいない。 どのような立場でも使命感、責任感が確乎だにしている。日本の報道記者の一部がこうであるなら広く世間一般はどうのようかは察しがゆく───。
つまり見物人なのである。しかし見物人に銃が乱射されたときどうするか?。誰も考えてもいない。なぜなら見物しているからという自分を理解していないからだ。そういう見物人に銃が乱射されても、私自身は助けない、またその必要も感じない。
延々とテロを招いたのはAmericaだ、十字軍だとまで遡って力説し吹聴してまわる者がいる。それは致し方ない。見物人は暇人であるからそこまで考える余裕があるのだろう。だが実際に攻撃を受ければ分かる。また不分いかも察れない。守るとはなにを守るかの膚に鳥肌がたつ、あるいは一切の気孔が閉じるあの感覚にならなければわからないのかも察れない。しかし日本では報道記者も一般人も見物人を決め込んでいる。このような空気のくに がほんとうに国際世界にたいして、使命感、責務感で「名誉ある地位を占め」ることができるのか?───私は甚だ疑っている。

戦争の曲解、平和の倒錯が起きて熄まない。今一度忠告をしておくなら、発言が意識的であるにせよ無意識的であるにせよテロリストたちと同じはなしにならぬ よう、自己を律して規整して、この公の場での発言を行ってもらいたい。「パリやブリュッセルを空爆しないのか?」的な愚かな無責任さに対して。