慰安する花が海にも広場にも呈される。しかし私はそこに慰安というより決まった進行表下の行為という景色しか受け取ることができない。それは哀しく苦悶である。

進行表時代が抱えすぎた本能という爆弾

「年に数回、胸騒ぎを覚えて何も手がつかないことがある。終日もあれば二日ぐらいのときがある。自分に関することより、自分の周りか世の中にそれを覚えてならないことがある。きょうは忌になるぐらいの胸騒ぎだ。これは苦しい」(2014.12.4.)

ここながらく、そしてきょうも私は胸騒ぎが劇しくなにも手がつかないのです(投述にそれは記されていますが、これほどながいあいだの収まらぬ胸騒ぎはありません)。頭の回転も殆ど動いていません。ですからこうして書く事もふらふらして幽体のような感じて一字一字が盆鑓として、なにも獲めてはおりません。ただ「メネ、メネ、───パルシン」と壁をなぞるかのような指先の運動のみによって書き出されている丈でして、苦痛であり苦悶の天辺から爪先であります。家政婦長もスタッフ、副官の声にも反応がほとんどできない。つまり話していることがよくわからない状況です。ですのでこれは殆ど指先の動きが書き出されてるとお考えください。

「公開放送なぞはスタジオでアシスタントの方がここで拍手してください……とかオーディエンスに指示しますね。そこで拍手したり予定調和の笑いをします。それがテレビジョンの放送で流れる。みなさんはそんなことは察らないけれども、そこにテロップが入り二重の進行次第を刷り込められる。これが社会に漲ってしまった。察らず察らずに。 進行表が狂うとみなさんはハラハラしてくるでしょ?。放送ミスに黙り込むでしょう?。もう刷り込まれている心身的証拠です。これがすべてにある。ですから進行表なしのプロの芸人さんがはらはら番組をやるならそのはらはらさを安心してみれるが、才能のない、作る側も出演者も才能のないそれをやられ、テロップなしになるとどうなるか?、想像すればわかることです。想像しただけで不安感が出来するでしょう。もう冒されてしまっているんですね、進行表のあらゆるものに」

事件の発生から翌日にしてのこの街の白けさはなんなのだろう?。私は変貌のなかに危険な大問題が浮上してきているように直感する。きわめて危ないそれを───。

「L.A.もいったん何かが起これば何が起きてもおかしくないガスが出ているんです。好景気にこのようなガスが漏れ出すはずがないのです」(2014.12.4.「ニューヨーク市警警官不起訴に、連夜の全米抗議デモ拡大」の報に対して)

何が起きても不思議ではない日常に、進行表の予定通りにテロが発生しました。これの時間内をなんと説明できるでしょう。つまりいま世界のすべては分かっている進行表下になにひとつ為すことできぬ、進行する体験そのものを取り違えりる身体になってしまった、いるということでしか説明ができません。私の胸騒ぎもそれでしょう。すべてが分かっている、何が起こるかも分かっている。それを意見具申として公も私もする。それを参考にするがなにもしない、進行表にすべてを委ねる。なぜか?です。
誰でが容易に考えられること、道理を組み立ててゆくなら、終いがわかっていること。またそれを改めるにはなにが必要なのかという一切が、第三者的であり、他人事である事態の世界。
進行表によって襲撃が起こる。それを未然に防ぐことができない、ガスは延々と漏れ出している。それも進行に任せる。報復攻撃も進行表であり、問題を解決はしない。このような進行表のなかのすべてを委ね、目撃し、疑似体験をしようとし、しかしそれらは一切できなく、ただ進行表どおりにすべてが動いて、すべてが起こるだけ───。

悪魔払いの風船儀式が我が家ではまもなくです。厄介を空へ飛ばして一年を始末する。しかしそれでもこの動揺に近い困惑に近い胸騒ぎが払えるかどうか───。

私たちは何に対して本人自身であるのか、何に対して主体であるのか、客体であるのか───すべてが不明になってしまった───そのようななかでの胸騒ぎであり、温泉へ入っても収まらず、なにをしても苛まれる私の壊れそうな数日であります。