〝保守的リベラル〟のインチキ
人と人である以上の本能と経験の上での間合い

ワシントン大行進から半世紀。 しかしこの問題は半世紀であろうが何世紀であろうが解決を見ることはない──と私は念っている。なぜなら人間がいる限り、不完全で罪あるものとして産まれる人間である以上は、解決されるはずがないとおもっているからだ。 日本では我が国のあれこれを物真似をしていれば、保守であったりリベラルであったりするんぢぁないか、そういう保守気取り、リベラル気取りの悪癖が、まったく次代に於いてはいっそう酷くなってしまった一年だった。 嘗ての日本人はそれでもアメリカとの間合いを測る能力があり、その能力はなにもアメリカに対してではなく、誰に対しても、それが家族のあいだにも、人と人である以上の本能と経験の上での間合いを持ち得ていた。 であるから、ワシントン大行進を真似ようなどとはおもいもせぬだろうし、またするはずもなかった。 私も差別を受け続けた移民の末裔の一人である。なにも差別は白人からだけではない、アフリカ系アメリカンからも差別は受ける。アジア系の裡にも、欧州にも、アフリカにも、白人の内部でも外部でもされ・受け続ける。
差別はそれこそ複雑で重層的で連環であって、それを真似られたのでは、私たちへの冒瀆以外のなにものでもないと苦虫の顔で、私は日本での黒装束の真似乞食を眺めていた。 差別を撥ね除けるには日常に直面する一つ一つの、滾るような、熱くなるような、それでいて鉛のような混淆した重さを、如何にして受苦し、いかにして闘うかの己との対話と回答を己が引き出していかなければならない一生もので、誰しもそこから逃れられない我がくにと日常がある。
ただ黒装束をきてぞろぞろ歩いて、半世紀の真似事をして、やれ運動だとおもっているとしたら、発想の前提がすべてまちがっている、発想の前提が侮辱で始まっている。 私たちはそのような真似乞食を嫌悪する。 それがアメリカの保守であり、リベラルであり、アメリカンである。
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