Rethinking Japan・国鉄解体を象徴とする伏線


「日本では宰相個人に対する政策以外の罵りと、その支持者によるそれら罵りへの罵りの応酬がずっと繰り広げられていまして、多くの人びとが辟易しているのではないか、辟易していなければちょっとそれは目を覆う惨状であると私はおもいますが、ここにも1980年代そっくりそのままがあるんですね。当時のそれは中曽根さんに向けられたものでした。記憶を辿ってみましても、高名な音楽評論家までが、中曽根さんがテレビに映りますとスリッパで画面を叩く───という話を思い出します。当時はその話を掲載するかしないかは報道の編集権───選択権の権限によって取捨選択されていました。この取捨選択さが社会の安定に大きく寄与していたと私はおもいます。だが、Participatory Democracyの社会的人格が実現していない社会で、デジタル手段を入れた途端に起こることが今の日本には露わです。騒ぎだけが起こり騒ぎだけがあらゆるまともなものまで、必要とするものまで破滅させてしまうことになるのはじゅうぶん日本に明らかです。

その上で先ほどの80年代コースの発生について補訂するならば、80年代の政治の変容がこんにちその極点に社会の方面から経済の方面からも行き着いた観が私にはあります。それが国鉄解体を巡る日本の当時の社会ですね、そこによく表れている。またあらゆる問題を官邸に集中するという非公式集団の提言もこれまた歴代政府を通してこんにち行き着いた。その流れを獲まずことがなによりもまして日本のためであるのに、日本宰相を論い、その支持者がそれを論い、一切の取捨選択がまったくないことと相まって、無残さをより呈している。私はこの行き着いた今をどうするかに人びとの思慮を働かさせなければいけないではないか───とおもうものであります」