未来の人にぼくらはどう見えるのだろう

人には二種類いて、価値観を自分の中に持つ人と、世間の価値基準を持ってくる人 — というのは、少し単純化しすぎだけど。つまり人が社会で生きている以上、世間と完全に独立して生きて行くことは不可能だから。でも、大雑把に言えば、このように言うことはできるだろう。

ぼくは、10年近く外国暮らしを、しかも転々としてたせいもあって、「郷に入っては郷に従え」式に生きていったら、どこかで大きな失敗をすると感じて、繊細な気遣いとかニュアンスとかの漂う上品な文化を捨てて、どこにいても通用するような素朴な価値基準(つまり、誠実にとか、正直にとか、親切にとか、そういう原始的というか、高級ではない価値基準という意味)で生きていこうと思ったことも影響してるんだろう。

そんなぼくの目で見ると、周りの多くの人が(特に日本の人が)自分の考えよりも周りの考えを、むしろ率先して尊重して生きているように見える。世論なんてものは場所や時代の流れで簡単に変わり得るもので、絶対なものではない、という当たり前のことを知らないんじゃないかな、と不安になる。(心理学とか知らないで言ってるけど、過剰適応っていうのかな。あ、でも、そんな人たちでも、ぼくには適応してくれないね、そういえば。)

時間的な変化、つまり今の状況を未来の人が見たらどう見えるんだろうと思いながら過去を振り返って考える時に、最近ぼくが引っかかってしまうことの1つに、今の日本の大学人のことがある。恐らくは自らも経験しくぐり抜けただろう、ポスドク問題とか奨学金問題が未だ解決してない今日、そういう奨学生やポスドクを使って仕事をしている先生たちは、今の日本という文脈としての「空気」がなくなった状況では、どのように映るのだろうと。
アメリカ独立戦争時代に、使用人として奴隷を使っていた人たちが居たけれど、質的に彼らとの間に、類似性を感じてしまう。当時の金持ちも大半は悪い人じゃないと思う、今の大学の先生がブラック企業の悪徳経営者のメンタリティから遠いように。

戦争中に戦争賛美してた同じ人が、終戦後に平気な顔して平和を謳歌する無責任さは、時代の波に要領よく乗っていくという、自分の価値観などない人だ。

そんな人間になりたくないと思えるのは、オレが今、食うに困らないシアワセな境遇だからなのか?
そうは思わないけどな。


と、思ってることを正直に書いてみる実験

(ということにしようかな。正直なところ、いい加減、いろろなことが、いろいろと、我慢の限界に来ている気がするんだよな。だから、そういう無意識の意識化というか、ま、単純にガス抜きなのかな。)


注:上の写真はぼくの撮ったもので、場所は Terwillegar Park。モンちゃん連れて、みんなでよく行った場所。

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