Instagramに疲れたのは、あなただけじゃない

先日、こんなニュースを見かけた。

急増するキラキラ起業女子、大半は経済困窮…SNSで必死に「華やか&リッチライフ」自己演出

キラキラ女子を少しバカにしたような記事だ。もしかしたら、気分を悪くする人もいるかもしれない。でもぼくはこの記事を読んで、「キラキラ女子の気持ち、スゲー分かる」と思った。と同時にこうも思った。Instagram(以下インスタ)のフィルター越しにキラキラと輝く彼女たちは、本当にリアル(現実)でも幸せなんだろうか。

インスタとは何かについて、ここでは説明しない。この文章を読んでくれている人の大半は、すでにかなりのベテランインスタグラマーだろうから。先に言っておくと、現在進行形でキラキラしているあなたには、この文章はつまらないかもしれない。

ぼくは、2011年に最初のインスタアカウントをつくった。それ以来、インスタを始めては辞めてというのを定期的に繰り返している。


2011年頃は、写真をシェアするという概念が今ほど浸透していなかった。当時流行っていたHipstamatic(ヒプスタマティック)という、オシャレなフィルター加工ができるアプリとの違いが、イマイチよく分からなかった。この頃のインスタは、ぼくにとっては大学の友達との交換日記くらいのものだった。写真もありのままの自分の日常を、適当に写真に撮ってアップしていた。

そのあと、段々みんながオシャレな写真をアップするようになってきた。スタバでMacBookを広げて「なう。」みたいな投稿を頻繁に見かけるようになった。ダサい写真ばかりの古いアカウントは捨てて、新しいアカウントに僕も負けじとクールな写真をアップした。

大学を卒業する頃には、何人かのインスタグラマーがまわりに登場していた。フォロワーの数が千や万の単位の人たちだ。彼らいわく「自分の写真にテーマを決めて、テーマに沿ったベストな写真だけをアップすること」がフォロワー数を増やすコツらしい。ぼくはアカウントをまた新しくして、特定のテーマを決め、それに沿ったベストな写真だけをアップするようにしたら、フォロワーがちょっとだけ増えた。

いい写真を撮るために、毎日の自分の行動が変わった。最初の頃は日記のように使っていたインスタなのに、インスタのためになにかをする、どこかへ行くようになった。自分の友だちに充実した生活ぶりを見せたいから、日常のベストな瞬間だけを切り取ってアップするようになった。もちろん、友だちも同じくベストな瞬間だけを切り取るから、インスタのタイムラインには、みんなの幸せな日々の記録だけが残された。だけど、つくられた自分の生活はそう長く続かず、ぼくはインスタに投稿することを辞めた。


ある日、ぼくはインスタのアプリを開いて、自分の友だちや他の人の華やかな生活を見るたびに、自分のなかに渦まく、ある感情に気づいた。

その感情とはもちろん、「嫉妬」だ。

友だちが海外旅行に出かけているとき、飲み会やパーティーではしゃいでいるとき、自分はオフィスで仕事をしていたりする。素直に、素敵な時間を過ごしてるね、楽しんで!と心から思えればいいのだが、どうやらぼくの心はそんなに寛大ではないらしい。一方で、いざ自分が休みをとって海外旅行にでも行けば、ここぞとばかりにインスタにクールな写真をたくさんアップする。そして多分そのとき、ぼくは友だちの嫉妬を生みだしていたんだろう。ぼくは、この嫉妬スパイラルに耐えられなくなってインスタからドロップアウトした。

いまや彼氏彼女を選ぶ基準に「インスタ映えする」かどうかという軸があるほどだ。恋愛もパンケーキも、いいね!の数によって評価される。こんな見栄の張り合いを続けるには、かなりの体力とお金が必要になることは容易に想像できる。冒頭のニュースで登場したキラキラ女子たちは、まさにこのギリギリの戦いを続けているのだ。

インスタの世界には可愛い人、カッコいい人や素敵な人が大勢いて、毎日彼らのアップロードする華やかな日々を見ていると、まるで自分の生活が退屈で、価値のないものだと錯覚してしまう。少しでも彼らに近づきたくて、日常とかけ離れた瞬間を切り取ることに、みんなが必死になっている。本当に大切にしないといけないのは、あなたの周りにいる家族や友だち、そしてありふれた日常そのものなのに。


ぼくは最近、性懲りもなくインスタアカウントを新設した。このアカウントを、なにかを発信する手段として使うのか、ただ自分のありのままのダサい日常を投稿するのかは、まだ決まっていない。見栄やプライドを捨てることによって、世界を繋ぐこの写真共有サービスは、また別の表情を見せてくれるはずだ。