日本のアニメ文化とスペキュラティブ・デザイン
デザイナーならスペキュラティブ・デザインという言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。でも日本でその詳細を理解している人は少ない気がする。
伝統的なプロダクトデザインやグラフィックデザインが主な日本のクリエイティブには馴染みのない発想だからかもしれない。
従来、デザインとはなんらかの課題を解決するための手段として使われてきた。例えば、座り心地のいい椅子、子供が怖がらないMRI治療室、Ipodとituneの新しい音楽体験など、どれを取ってもデザイナーが重要な役割を果たし、ユーザーの様々な課題を解決した結果生まれている。
一方で、スペキュラティブ・デザインはロイヤル・カレッジ・オブ・アートで教鞭をとっていたAnthony DunneとFiona Rabyが生み出した新しいデザインの定義と思想である。彼らは社会・技術・文化を批評し議論するためのツールとしてデザインの役割を捉えなおした。課題解決のためのデザインと区別して、課題提起のためのデザインなのである。
日本では、数年前からRCA出身のアーティスト・デザイナーのスプツニ子さんや長谷川愛さんなどが国内で活躍するようになり、次第にスペキュラティブ・デザインの言葉が広まっていった。
では、このスペキュラティブ・デザインの背景にある思想や考え方は果たして日本にとって完全に真新しいものなのだろうか? 私はそうだとは思わない。
むしろ、スペキュラティブ・デザインという言葉が生まれる以前から、日本でもSFアニメ・漫画という形で仮想社会や未来社会を描写してきている。「鉄腕アトム」、「PLUTO(浦沢直樹著)」、「攻殻機動隊」、「サイコパス」、「ガンダム」など、絶妙なストーリーを通じて視聴者や読者に現実そして未来の課題や矛盾について深く考えさせる作品が数多く世に出ている。
西洋のスペキュラティブ・デザインは批評のツールとしてデザインを用いる思想と、ギャラリー文化が交わることで今の独特の表現に至っている。
それに対して、生まれてきた文脈は異なるものの、日本のアニメ・漫画サブカルチャーをバックグランドとして生まれた数々のSF作品は、スペキュラティブ・デザインと似た「問いかけ」の効果を持っている。
例えば、1960年代に出版された手塚治虫の「鉄腕アトム」では、ロボットが人と同じ権利を得るべきかどうかという議論の場面がすでに描かれている。
2012年に公開された「サイコパス」では、人工的な超知能によって統治された社会が描かれ、顔認証技術による監視、犯罪を発生する前から防御するシステプが描かれており、これらの技術の是非について考えずにはいられない。
さらに、ロンドンでは、スペキュラティブ・デザインを学んだクリエイターが、映画産業でシナリオ・ライターや映像クリエイターとして活躍する場面が増えてきている。このことも踏まえれば、スペキュラティブ・デザインと日本のSFアニメ・漫画は思ったより共通点があるのではないであろうか。
日本が今まで海外の文化をうまく自国に取り込んできたように、SFアニメ・漫画のサブカルチャー文脈にうまくスペキュラティブ・デザインを関連させて、その意義を直感的に受け入れられるようにするのも一つの手段だと思う。
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