サーカスは移動する

ぼくは作家だ。たとえ誰がなんと言おうとも。

たしかに、こうやって文章を書いているぼくの足元では、仔ライオンがアルミの灰皿に入れられたミルクを一心不乱に飲んでいる。まだ生まれて2か月しか経っていないというのに、器用に小さな舌を匙のかたちにすぼませて。ぼくは足の裏で仔ライオンの背中をそっとなでる。仔ライオンはミルクを飲むのをやめずに、うるさそうにちょっとだけ体の位置をずらす。こんなやりとり、作家はふつうしない。

種明かしをすると、ぼくの兄ミシュはサーカス団の猛獣遣いをしていて、ぼくはミシュといっしょにヨーロッパ各地を転々としている。サーカス団でのぼくに与えられた仕事は、動物の赤ん坊の世話とミシュの身のまわりの世話だ。

だけど、そんな生活ともおさらばするときが近づいている。ぼくは本来あるべきぼくの姿を取り戻そうとしている。

明朝ぼくはこのサーカス団を出て行く。

ジュネーヴでの興業が一定の成果を上げ、一座は明日、ローザンヌに向けて移動を始める。テントを解体し、えさをたっぷりあげた動物たちを檻に入れ、洗濯物や自転車を居住用コンテナに片付けて、移動を開始する。ミシュは動物班の責任者をしているから、毎度おなじみのこととはいえ、明日は一日中忙しくするはずだ。その隙を見て、ぼくは明日ここを出て行く。

半開きのコンテナのドアがふいにノックされる。ぼくはこの文章を書いているディスプレイをそっと閉じる。

「ロッパ、なかにいる?」ゼルマの声だ。

「いるよ。いま行く」

ぼくはチェアの背もたれにかけてあった上掛けを羽織り、ドアを開けた。驚いたことに、彼女は舞台衣装のままだった。風が上衣のそでについたフリルを揺らしている。

「こんばんわ。ごめんね、こんな時間に」

「べつに大丈夫だよ」

「ひょっとして、文章を書いてた?」

「うん。でも大丈夫。こうしてるいまでも、だれかがぼくたちのことを書いてるから。あとでそれを見れば、ぼくが何を書こうとしていたかはわかるよ」ドアの脇に革のブーツが一足、置きっぱなしであることに気づいた。あとで忘れずに、ベッドの下に隠してあるスーツケースにしまわなければならない。

「それならよかった」ゼルマはぶふっと鼻を鳴らした。「ババンギは元気にしてる?」仔ライオンの名前だ。

「元気だよ。いまさっきミルクを一杯飲んだ。もう寝てるんじゃないかな。抱っこしてこようか?」

「いい」ゼルマは本当はもっと言いたいことがあるのだ、というふうに視線をそらし、長いまつげを伏せた。そして意を決したかのように、口を開けた。ことばは遅れて出てきた。「それで、ババンギは連れて行くの?」

完全に見抜かれていた。さすがはミシュの相棒だ。ぼくはかぶりを振った。

「そのつもりはないよ。ババンギはこの一座の将来を担う財産だ。それに、ぼくはノートパソコンが一台あれば、どこでだって仕事はできるからね」事実、スーツケースに詰め込んだ荷物は少ない。あとで革ブーツを入れたとしても、まだまだ余裕がある。

「遠くに行くの?」ゼルマの編んだ髪が揺れる。その下にはしなやかに伸びる長い首。

「ヨーロッパを出て行こうと思っている。アフリカ大陸になるか、南米大陸になるか、まだ決めかねてるんだ」ぼくは吐く息で両手を温める。

「機会があったらアラビア半島にも行ってみて。私の故郷。きっとあなたにとって書くべきものがあるわ」

「ありがとう。必ず寄ってみるよ」

ぼくはゼルマの鼻面をトントンとたたき、その首に腕を回した。首筋にゼルマの熱い息を感じた。「ミシュとババンギをよろしく」

一匹の羽虫が暗闇の向こうからやって来て、コンテナの出入り口を塞いで抱擁を交わしているぼくたちに戸惑った。しばらくプロパンガスのボンベの周りを所在なげにうろうろと飛び回り、やがて決意してぼくたちのほうに近づいてきた。ぼくはまだゼルマの首に身を預けていたが、その羽音にゼルマの耳が反応した。

耳はぶるっと震えた。いつもの彼女の仕草だった。

羽虫は耳に追い立てられ、もと来た暗がりのほうではなく、人工の灯りが煌々と輝くコンテナの室内に飛び込んでいった。

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