「人生は短い」というが、震災以降あらためて「生きる」ということの意味を考えることが多い。2012年3月には被災者のために会津鶴ヶ城で初めてのプロジェクションマッピングをやらせて頂き、2013年以降、アメリカのオーステインで開催される世界最大の音楽、映画、インタラクティブの祭典であるSXSWに毎年出展し、今年も福島県の支援を頂き信州大学と共同研究している「人工知能を使った唾液による癌の早期発見システム」で4年連続出展することになった。また1月2日の22時からNHK BS1スペシャルで放送される「シリコンバレー戦国時代」という番組で、今取り組んでいるFUKUSHIMA Wheelというスマートシティ向けのシェアサイクルを通した震災復興プロジェクトであり、福島からシリコンバレーそして世界に対する挑戦が取り上げられることになり、今年もとてもめまぐるしい一年だった。

NHKの番組「スーパープレゼンテーション」でも広く知られるようになった世界的に著名な人々が広める価値のあるアイデアを語る講演会、TED(テクノロジ、エンターティメント、デザインの頭文字)はみなさんご存知だろうか?ちなみに神戸で今年の5月に開催されたその地方版であるTEDxKobeでは、私もお話しさせて頂くという大変光栄な機会を頂いた(http://tedxkobe.com/speaker/speaker0028/)。数あるTEDのトークの中でもMITメディアラボ所長の伊藤穰一の「革新的なことをしたいなら「ナウイスト」になろう」は特にお気に入りのトークであり、福島のために活動をしているNPOのSafecastの活動なども紹介されており、福島の方々にもインターネットで公開されているトークをぜひ観て頂きたいと思う。

インターネットが無かった時代は、物事はシンプルですべてがユークリッド幾何学的、ニュートン力学的でそれなりに予測可能だったが、その後インターネットが登場し、世界は極めて複雑になり、低コスト・高速化が一気に加速し、私たちがこれまで信奉してきたニュートンの法則は万能ではないことが明らかになった。また911や311そしてISISなど、認識論学者のナシーム・ニコラス・タレブの言うところの事前にほとんど予想できず、起きた時の衝撃が大きい事象であるブラックスワンが起こり続け、世の中は非常に混沌としている。そういう不確実性の時代にどう生きるのかという問いに伊藤穰一は「地図を捨ててコンパスを持て」と言っている。

つまりこれは世界の地図が常に書き換わっている時代にあらかじめ描かれた地図を頼りにするのは非常に危険であり、地図より行きたい方角が分かるコンパスを頼りに、つどつど周りに道を聞きながら行くべきであるということである。幸運なことに、どんなに世界が複雑でもやるべきことは単純で、すべてを計画し、すべてを揃えなければ、などと考えるのはそろそろやめにして、つながることに力を注ぎ、常に学び続けアンテナを高くし、「今」に集中すべきということである。今の福島に必要なのはまさに今に集中し、今を生きることではないだろうか。

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

皆さんは「ユニコーン」を知っているだろうか?ユニコーンとは評価額が10億ドル以上の上場前の非公開企業でシリコンバレーには50近くあるとされている。UberやAirBnBはその代表でもあり、Uberは創業からたったの5年で評価額は約7.7超円だ。名前の由来は神話から来ており、ユニコーン企業は既存の業界やエスタブリシュメントとも激しくぶつかりながら、その圧倒的な破壊的イノベーションで他を圧倒して決して飼い慣らされない聖なる存在でもある。

最近、アメリカのインターネット企業の老舗であるYahoo!がインターネット部門を売却とするというニュースが目に入った。まだ1994年、創業者の2人ともまだ大学生でサーバもスタンフォード大学に設置されていた時からの利用者で、インターネットの創世記である1995年、同じ年に創業した同志としては万感の思いがあった。ちなみにその当時、学生とともに会津の観光紹介のホームページをお金ももらわず好きで作り続けて、Yahoo!で「会津」と「東京」で検索すると自分たちの努力もあり会津は東京の3倍近くの情報があった。つまり物理世界を知らない人にしたら、インターネット上の世界では会津は東京の3倍大きかったってことである。

2年ほど前、会津大学開学20年を祝う新聞で「会津にシリコンバレーを」という見出しを目にした。自分にしてみたら1993年のデジャビュであり、あの会津にシリコンバレーはきっとできたかもしれない当時の狂騒を知っている身としたら、とても複雑な気分で正直とてもがっかりした。ただ自分が一つ言えるのは、実際に会津にシリコンバレーはできなかったし、その千載一遇のチャンスを20年逃し続けていた者には、これから20年経ってもきっとできないということだけである。正直、映画ブレードランナーのラストシーンであるレプリカントの雨の中の涙のシーンの気持ちである。20年経ってもまだこれから会津をシリコンバレーにするというのであれば、まず謙虚に過去の失敗に学び、若い未来のユニコーンたちを大事にする必要があるのではないだろうか?

自分は戊辰戦争で敗れた会津藩の藩士がカリフォルニアにまで移民したように、自らシリコンバレーに単身で乗り込んで仕事を作ったりネットワークをコツコツと築いている。また会津大学創立の1993年から外国から来た教員や家族と学生や事務局のスタッフ、地元の人々との交流の場として毎年りんご狩をしており、今年で22回目を迎えた。まさに継続は力というけど、こういうみんなが特に理由もなくふらっと集まれる場を提供するのは、無駄に多額の税金を作ってインキュベーション施設とかのハコモノを作るよりすごく大事だと思っている。実際ずっと続けるのは大変だしこういう活動はやめるのはすごく簡単だけど、やっぱりこういう場がないと会津にはシリコンバレーもできないと思っており、自分は自分ができる事をずっと継続してあきらめずにやっている。いつか若い人がこういうの場を見て同じような活動をしてくれればうれしいし、大好きな故郷に少しでも恩返しできればいいと思っている。

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

追記:その後、スティーブ・ジョブズのメンターであったことでも知られるハイテク分野のマーケティングの大家といわれたレジス・マッケンナが"Silicon Valley is not a place, but a state of mind (シリコンバレーは場所ではなく、それぞれの人の心にある)"と言っていたのを知ってすごくいい言葉で胸に刻んだ。

1990年代当初のインターネットの創成期にたまたま会津大学の職員として働く中で、インターネットに出会いその無限の可能性を信じて26歳で起業してから20年。習うより慣れろで右も左もわからず、数多くの失敗を繰り返しただがむしゃらに仕事をしてきた。起業志向が強かった訳でもなく、大学にも行っていないのでMBA(経営修士)などの学位は持っておらず、もっぱら周りにはManagement of Business Walking Around(現場を歩き回る経営)なら持ってるけどと言っている。起業当時は、ほとんど給料も無く会社にずっと泊まり込んで1日20時間くらいしていた。もちろんとてもキツくて大変だったが、自分の本当に好きなことに全てを捧げていたので振り返ってみると人生で最もロマンティックだった瞬間でもあった。

起業家は会社の全てをデザインできる唯一無比の存在である。正直に告白すると実は自分はとても人見知りだけれども、もちろん「会社の顔」である以上、常に外交的に振る舞うように心がけている。起業家の頭の中は、休みもなく1日24時間365日、常に仕事のことが霧のように晴れるとがなくずっと頭から離れることはない。よく起業に関しての意見を聞かれることも多いが自分はいつも「起業なんてやめとけ」というのが正直な意見(どうせ成功する奴はそんなアドバイス無視して勝手に起業するだろうし)。周りからはとても成功して幸せに見える起業家でも、ストレスからくる飲酒などの不摂生で体調を崩したり、家庭が崩壊したり、精神のバランスを崩し自殺された方も自分の周りでも何人もいる。起業家は事業を続ける限り「起業家というコスプレ」をたった一人で演じ続けなければならない。ただその一人でいる事を周りに誰も相談できない寂しい存在と思えば「孤独」になるだろうし、たった一人で誰も理解できない極地に達することのできると思えばその存在は「孤高」でもある。

数年前に「イヴ・サンローラン(2010年)」という映画を観た。オートクチュールの天才と呼ばれたイヴ・サンローランの物語というよりも、亡きイブを回顧する、50年間にわたるパートナー、 ピエール・ベルジェによるイヴとの日々の回想録である。この中でベルジェはイヴの栄光を、「名声とは幸福の輝かしき葬列」と形容している。 とても考えさせられる言葉であり、映画を観た後もしばらく心の中にその言葉が残ったままだった。光が強ければ影もより濃くなる。成功というスポットライトは内なる光を見えなくする。イヴは引退会見で、ランボーの「人生で一番大切なことは、自分自身と出会うこと」という一節を引用している。あなたは本当の自分に出会えているだろうか?

これは夢だが、もし自分が今の仕事を引退する時がきたら、世の起業家や経営者だけが入れる「イヴ」というの名の会員制のバーをやってみたい。バーの中では好きなだけ愚痴や弱音を吐いてもらい、大好きなお酒でほんの少しの間現実逃避してもらい、専用のチアリーダーが「大丈夫!あなただったらきっとできる!」と応援してくれる仕組みだ。世の孤高の存在に幸あれ。

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

私は福島で生まれ福島で育った。ただ、とても悲しいことに自分の愛する福島は東日本大震災によってバラバラに壊れたしまったように感じる。福島第一原発事故の廃炉作業だけではなく、本来、日本の20年30年先の未来の課題であった少子高齢化、様々な風評被害、過疎、限界集落から消滅集落へ、コミュニティの崩壊、政府への不信などが震災により時計の針が急速に進み、明日どうすればいい?といったような状態で日々噴出している状態だ。

皆さんは「金継ぎ」という言葉を知っているだろうか?金継ぎとは金繕いとも呼ばれ、割れたり、かけたり、ヒビの入ってしまった陶磁器を天然の接着剤である漆で接着し、接着部分を金で美しく装飾し仕上げる日本古来の修復技術であり、金粉を施すのには蒔絵と同じ技法が使われている。修復された器の継ぎ目は景色と呼ばれ、割れてしまった欠片をつなぎ合わせることで割れる異なる趣を鑑賞することができ、茶の湯の世界でも、とても大事に扱われ愛でられている器としてより価値のあるものとされることが多い。16世紀後半から会津地域では漆文化が発展してきたため、街の飲食店で出される器がよく見ると金継ぎしてあったり、個人でもお気に入りの器が壊れてしまった時は、捨てたりせず職人さんに直していただたり、自分で金継ぎして愛する器を一生かけて使い続ける人も多い。恥ずかしながらそういう事が当たり前の文化的にも恵まれた土地である福島、会津に生まれ育ったため今まで特別意識したことはなかったが、会津の漆文化の育成に携わる尊敬する会津の先輩に「金継ぎ」のコンセプトを東日本大震災以降にあらためて聞く機会があり、その美しいコンセプトにとても強く心を打たれた。震災でバラバラになってしまった今の福島に必要なのはまさしく「金継ぎ」の精神ではないだろうか?

現在、自分のプロジェクトであるスマートシティ向けの自転車のIoT であるる”FUKUSHIMA Wheel” (URL: http://fukushimawheeel.org/)というプロジェクトをやっており、今年の5月には神戸で開催された広める価値のあるアイデアをお話しする場所であるTEDxKobeでもお話しさせて頂いた。先月から今月にかけては北京、台湾、そしてシリコンバレー、サンフランシスコをまわっている。そもそもこのプロジェクトは震災以降に被災地に、より人が戻ってきてほしいという思いから始まっており、環境センサーやLED、スマートフォンがつけられたハイテクな自転車はその思いを伝えるため、フレームや車輪を会津の漆でわざわざ塗ってもらい金継ぎのモチーフを入れてもらっている。バラバラになってしまい西洋的な価値観では無価値になってしまったものを、東洋的な感性で職人が丁寧に手を加え、より価値のあるものに昇華していくというプロセスやコンセプトは海外の人々の心をも強く打つようだ。

イギリスの詩人のオスカー・ワイルドはこのように言っている。「悲しみの奥には聖地がある。」福島はその聖地に違いない。サンフランシスコのダウンタウンを見下ろす21階のホテルより。

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

追記:”All my life, I have been in love with the sky. Even when everything was falling apart around me, the sky was always there for me. The sky was the only constant factor in my life, which kept changing with the speed of light and lightening. As I told myself then, I could never give up on life as long as the sky was there. “ — Yoko Ono

「アイデアと移動距離は比例する」とはフランスの哲学者のジャック・デリダの言葉である。自分はアントレプレーナー(起業家)である。起業家とは自分自身の努力で世界の全てを変えることができると信じている究極のわがままな人種だと思っている。ただ唯一自分の意思だけで自由に変えられないのは国家そのものではないだろうか?もちろん民主主義では選挙で国政は変えられるが、自分の一票だけでは変えられない。資産家が自分の金融資産を様々な形でリスクヘッジするのと同じように、どうして自分の国や住む場所をリスクヘッジしないのだろうかという考えもある(いわゆる永遠の旅行者という考え方)。

震災以降、積極的に世界各地を飛び回るようにしており、昨年からだけでも、アメリカ、フィンランド、ドイツ、バルト三国、台湾、シンガポール、韓国、中国など世界各国を廻り、1年の約1/3は海外にいる計算だ(もちろん全て仕事)。さらに日本にいる間でも仕事の打ち合わせなどで東京や神戸などに出掛けることは多いのだが、あくまでも本拠地は自分のこよなく愛する故郷の会津にこだわっている。

気になっているコンファレンスなど積極的に参加し、若い学生を連れて行くことも多い(食事は当然安いHootersで決まり)。こういう話をすると必ず周りから「海外いいですね〜!」と言われることも多いけれど、実際はお金もかかるのはもちろんの事、時差ぼけや、言葉の壁、習慣の違い、環境の違い、移動、国内と国外の仕事の二重の仕事をこなさなくてはいけない事、食事の違い、愛する家族と離れて過ごさなくてはいけないことなど数多くのストレスがある(今まで数多く旅しているがいつもエコノミーでビジネスクラスには乗ったことは無い!)。

では、どうしてそれでも旅をするのか?特に海外など全く文化も習慣も違うところに行くのは確かにストレスなのだけれど、予定調和ではない普段と違う環境に自分をあえて追い込むことによって、その一瞬一瞬により集中できる気がしている。例えば、言葉が話せなければ何もできない赤ん坊以下だし、ローカルルールを知らなければ治安が悪いところであれば死ぬかもしれない。レストランでは注文さえできなく、何が出てくるかも分からない。ただ、それは自分の知らなかったことを学べる貴重な機会でもあり、他の文化や習慣を学ぶだけではなく自分自身の文化やバックグランド、そして自分自身が何者であるかということを知る自己の探求の旅になるだろう。また多種多様な文化の越境者が、モノカルチャーな人に比べて引き出しの数が増えるのは言うまでもないだろう。

まだどんなに遠くまで旅しても、自分は知りたかったことを学んだとは言えない。知りたかったことが何なのかわからなかったからである。ただ私は、知りたかったことが何かわからなかったということを確かに学んだのだとも言えるだろう。

p.s. 個人的に旅で一番好きなのは、その土地でしか食べれない料理を食べたり、飛行機の中で誰にも邪魔されず好きな本を読んだりするのが大好き。だから最近の機内でインターネットを使えるサービスには大反対!

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

2015年の9月1日で会津大学初めてのベンチャー企業である自分の会社Eyes, JAPANを始めて20年になった。会津大学初代学長の國井先生の「会津にシリコンバレーをつくる」といった理念のもとに、1995年に会津大学のとても優秀な学生たちと右も左もわからずに会社を設立した。

起業したての頃は一日20時間働いても半年で6万円しか手元に残らなかった。もちろんお金が無いので親の家に居候し父の事務所を勝手に間借りしていた。結局、まともに人並みの給料をもらうのに5年以上かかった。

ただ1990年代初期のインターネット創世記の時代に幸運にも立ち会えた人々は時代の寵児であったマークアンドリューセンだけではなく、自分の好きな誰もやっていないことをやれる喜びと自分たちこそが未来を創っているという使命感で突き動かされていたとても幸せな時代だった。

その後しばらくしてITバブルがあったが、結果的に東京ではなく会津という地方都市にいたおかげでバブルの恩恵にもあずからなかったが、そういう狂騒に巻き込まれることも無かった。そしてブロードバンドの普及がITをコモディティして、ITだけでは競争優位性は無くなる時代になった。起業する前は起業することが一番の困難と思っていたが、続けることの方がもっと難しいということに気づいた瞬間でもあった。

今では起業するのもすごく簡単ににできる時代で、学生の間だけプチ起業したり会社を売却するという選択肢を取る若い起業家も多いけど、自分にとっての会社は自分の好きな「テクノロジーのエッジ」を追い続けてきた自分の人生そのものであるので、自分の人生をあきらめたり他人に売ることは絶対にできない。

では、自分の人生を賭けて追い続けている「テクノロジーのエッジ」ってなんだろう?「テクノロジーのエッジ」とは、今はとてもカッコ悪くて一見ITなんか全く必要とされなく、誰もその可能性に気づいていないけどこれから世界を一変させるような力を持ったものである。そういったノビシロの大きい未踏の大地を踏みしめる喜びを追い続けている。もちろんパイオニアとして誰もやっていないことをするにはマニュアルもないし、自分で調べながら学ぶしかない。ノウハウが溜まるまでには膨大な時間もかかるけど、先行者利益も大きいしなにより自分が未来を創っているという楽しみがある。

日本そして地方は多様性に乏しく、失敗者にとても厳しく、なにかと出る釘は打たれると言われている。新しいイノベーションは様々な挑戦からしか生まれないが、挑戦にはもちろんリスクが伴う。例えば新しい挑戦で100のうち50のいいことと50の悪いことが生まれ、もしそれが加点法ではなく減点法で評価されたらどうだろうか?もちろん何もしないのが最高の戦略となるがこれからの時代を考える上で、足を引っ張ったりせず小さい失敗を恐れずにもっと受け入れる必要があるのではないだろか? “Failure is not loser(失敗は人生の落伍者ではない)”というが、そういった大きなリスクを背負って頑張る挑戦者をもっともっと讃える文化が日本には必要ではないだろうか?

*2015年の福島民報の民報サロンに掲載された記事です。

【独り言】インターネット創世記の1995年に右も左も分からずにその当時の大学生2名とEyes, JAPAN(http://www.nowhere.co.jp/)という魔法と区別がつかない優れたテクノロジーを創造する会社を26歳で起業してから、あと16日、2016年9月1日に21年目を迎える。あまり昔話をするのは好きじゃないけど、ちょっと今日はセンチメンタルな気分なので書いてみる。

1995年創業当時のセルフポートレイト

若い頃は田舎が嫌で会津を捨てて東京に逃げて行ったけど、1993年に自分の愛する故郷に戻って、たまたま県職員として潜り込めた会津大学でインターネットの無限の可能性にただただ魅了された。そこでは会津大学の初代学長國井先生の「アメリカでは優秀な学生はみんな大企業なんか行かないで自分でスタートアップをはじめる」という話にすっかりその気になり、GNUの聖人リチャード・ストールマンからフリーカルチャーのマントラを直接聞く機会に恵まれたり、誰よりも早くMosaicでホワイトハウスのホームページを見て当時の大統領だったビル・クリントンの飼い猫ソックスの鳴き声(ダウンロードに3分以上かかって「ミャオ」っていうだけだったけど)を最初に聴いた時のあの感動は未だに忘れない。産業革命に匹敵するような人類でも最大の時代の変わり目のまさに”Right Time, Right Place(適切な場所に適切なタイミングで)” に立ち会えたのは本当に幸運だった。

“I don't suffer from insanity, I enjoy every minute of it.”
-Edgar Allan Poe

今年の9月で自分の会社であるEyes, JAPANを始めて20年になる。そもそも2人の学生と一緒に1995年に起業した時の初代の社長(というか代表か)は自分ではなく、会津大学のとても優秀な第1期の学生で、自分はあくまでも優秀な彼らを助ける役だった(その後に映画”Social Network”ばりの愛憎劇があった結果、1997年に法人化した時に誰もやらないのでしょうがなく自分が社長になった)

起業したての頃は一日20時間働いても半年で6万円しか手元に残らなかった。もちろんお金が無いので親の家に居候し事務所も父の設計事務所を勝手に間借りしていた(ちなみにその時の家賃はまだ払っていない!)。そんなお金がない時期に、家に帰ると机の上におふくろの財布が無造作に置いてあり、ちらっとお金が見えた時に何度も悪の誘惑に駆られたが、26歳にもなってここでおふくろのお金を盗ったりしたら俺は人間失格だ!人間失格だぞ!と自分に何度も言い聞かせ、なんとか我慢をしていた(今でもその時お金を盗まなくて本当によかったと思う…)結局、20〜30万の役員報酬を定期的にきちんともらえるようになるまでは5年以上かかった気がする。

ただ1990年代初期のインターネット創世記の時代に幸運にも立ち会えた人々は時代の寵児であったマークアンドリューセンだけではなく、自分の好きな誰もやっていないことをやれる喜びと自分たちこそが未来を創っているという使命感で突き動かされていたとても幸せな時代だった。

その後しばらくしてITバブルがあり、自分の会社にも「2億円投資するから俺と一緒に上場しよう?」とか「2,000万円あげるから俺とやろう?」といったような怪しい輩がいっぱい寄ってきたけど(ちなみにその人たちは今全員いなくなった)、結果的に東京ではなく会津若松という地方都市にいたおかげでバブルの恩恵にもあずからなかったが、そういう狂騒に巻き込まれることも無かった。そしてブロードバンドの普及とITがコモディティになったなり、ハーバードビジネスレビューの”IT Doesn’t Matter”しかり、ITだけでは競争優位性は無くなる時代になった。起業する前は起業することが一番の困難と思っていたが、続けることの方がもっと難しいということに気づいた瞬間でもあった。

今では起業するのもすごくイージーにできる時代で、学生の間だけプチ起業したり会社を売却するという選択肢を取る若い起業家も多いけど、自分にとっての会社は自分の好きな「テクノロジーのエッジ」を追い続けてきた自分の人生そのものであるので、自分の人生をあきらめたり売ることは絶対にできない。

よく周りから聞かれるのは「Eyes, JAPANってどういう会社?何で食ってるの?」って質問をされることが多い。(ちなみにこの質問は親しい人に聞かれると「親に説明できない仕事(=つまり親に説明できるような仕事は大した仕事じゃない)」とか「魔法と区別がつかない優れた技術を創ってます(アーサーC.クラークの第三法則!)」って優しく説明していますが、仕事もくれない嫌いな人に聞かれると、「あんたの奥さんの下着の色なんですか?」って聞き返したいくらい下衆で余計なお世話だからほっといてくれって思っちゃう)

では、自分の人生を賭けて追い続けている「テクノロジーのエッジ」ってなんだろう?普通の会社は、例えば「携帯のゲーム開発やってます!」とか「医療のソフトウェア開発をしています!」とか”業種”という括りで分類されることが多いけど、デザインやCG、自転車のIoT、医療セキュリティから農業も仕事の領域としている自分にとってはあくまでも業種という括りは全くナンセンスで、「テクノロジーのエッジ」とは、今はとてもダサくて一見ITなんか全く必要とされなく誰もその可能性に気づいていないけど、オープンソースやシェアカルチャー、そしてセキュリティのようにこれから世界を一変させるような力を持ったもの。そういったノビシロの大きい未踏の大地を踏みしめる喜びを追い続けているのは、会社を始めたときの原体験が大きいかもしれない。1993年当時、日本でweb制作できる人は本当に限られた人だけで、当時テキストエディタで書いた1ページで10万円をもらっていた。それが今では1ページ数百円で制作する人もいる。その違い。もちろんパイオニアとして誰もやっていないことをするにはマニュアルもないし、自分で調べながら学ぶしかない。ノウハウが溜まるまでには膨大な時間もかかるけど、先行者利益も大きいしなにより自分が未来を創っているという楽しみがある。ただノウハウが溜まって他の人でもできるようになると途端に興味がなくなるのが自分の悪い癖だと自覚もしているし、苦労をかけている妻にもよくそれで怒られる(だってビジネス的には一番大変なところだけどやって一番おいしいところはやらないから)。そういう意味では自分は0を1にするのは非常に得意だけれども1を100にするのはとても苦手ということ(という話をスタッフにしたら「え?最初からそう思ってたんですけど自覚なかったんですか?」と聞かれた…)。また人材が圧倒的に少ない地方にいるからとかいろいろ言い訳をしながらも、そういう1を100にできる右腕を見つけられなかったことは本当に反省すべき点だと思っている。また同じく起業した友人たちがVCから投資を受けたとか、上場したという話を聞くと「おめでとう!」とは言ったわもののあいつにできてどうして自分にはできないんだろう?と悩み眠れない夜を過ごした時も何度もあった。

よく「Eyes, JAPANはベンチャー企業ですか?」と聞かれることが多い。自分自身は起業の聖地であるシリコンバレーにも20年近く毎年行っており海外経験も多いのでその質問には多少の戸惑いを感じる。自分ではEyes, JAPANは決してベンチャー企業ではない。いわゆる「スタートアップ企業」だ。そこで自分の大好きなサンフランシスコの友人Brandon Hillが書いた記事を読んでみよう(ちなみに自分の大好きな記事の一つ)。

ベンチャー企業とスタートアップの違い:
http://blog.btrax.com/jp/2013/04/22/startup-2/

自分は今後Eyes, JAPANを上場させるつもりはないし、投資を受ける予定も今の所ない。ただすごいハッカーやヒップスターたちと自分たちの大好きな今までに無い魔法と区別がつかないイノベーションを通じ、人々の生活と世の中を変え続けていければと考えている。もちろんその中で大きくスケールするような事業があれば別会社をつくり世界を目指したいと思う。ただスタートアップは最終的にIPOやバイアウトなどを通じ投資家に大きなリターンを収益モデルとするのが存在意義である。でも自分がEyes, JAPANで過去20年ずっとやり続けたかったことは、IPOやバイアウトというエンディングを拒否しつづけ、好きな仲間とスタートアップという熱気と狂気を永遠に続けることだったのかもしれない。

アイデアと移動距離は比例する

“アイデアと移動距離は比例する” は一世を風靡したフランスの哲学者のジャック・デリダの言葉であるが(よくある誤解でこれを高城剛が最初に言ったという説もあるが私個人はデリダが先だと思う)、まさにその通りと実感することが多い。個人的には2013年は、神戸や東京、石巻、大船渡など国内だけではなくアメリカ(サンフランシスコ、LA、ラスベガス、オースティン、バークレー、シリコンバレー)、フィンランド、ドイツ、エストニア、ラトビア、リトアニア、台湾など世界各国を飛び回った一年だった。もともとふだんは田舎に住んでいるため仕事の打ち合わせなども東京などに出掛けることは多いのだが、国内にいるときでも月平均で約1,000km以上は車で移動している。

海外は仕事だけではなく、気になっているテクノロジーのコンファレンスなどには場所を問わず積極的に参加するようにしているので必然的に海外に行く機会も多い。また若い才能にあふれた学生にぜひ世界のトップクラスを感じてほしいため一緒に連れて行くことも多い。という話をすると必ず周りから「海外いいですね〜!」と言われることも多いのだけれど、実際は時差ぼけや、言葉の壁、習慣の違い、環境の違い、移動、国内と国外の仕事の二重の仕事をこなさなくてはいけない、食事の違い、愛する家族と離れて過ごさなくてはいけないことなど数多くのストレスがある(今まで数多く旅しているがいつもエコノミーでビジネスクラスに乗ったことは無い!)。

では、どうしてそれでも旅をするのか?ということだけど特に海外など全く文化も習慣も違うところにいるのは確かにストレスなのだけれど、予定調和ではない普段と違う環境に自分を敢えておくことによって何事にも無意識でよりフォーカスできる気がする。例えば、言葉が話せなければ何もできない子ども以下だし、ローカルルールを知らなければ治安が悪いところであれば死ぬかもしれない。普段何の不自由も無く注文できるレストランのメニューも注文さえできなく、どんなものが出てくるかも分からない。ただ、それは自分の知らなかったことを学べる貴重な機会でもあり、他の文化や習慣を学ぶだけではなく自分自身の文化やバックグランド、そして自分自身が何者であるかということを知る自己の探求の旅になるだろう。また多種多様な文化の越境者が、モノカルチャーな人に比べて引き出しの数が増えるのは言うまでもないだろう。

最後に自分自身が、世界中を旅をする中で何を知りたかったかはいまだに分からない。ただ今はヒートムーンの言葉を思い出すだけである。

“どんなに遠くまで旅しても、私は知りたかったことを学んだとは言えない。知りたかったことが何なのか、わからなかったのだから。ただ私は、知りたかったことが何かわからなかったということを確かに学んだのだ。” — ウィリアム・リースト・ヒートムーン

p.s. 個人的に旅で一番好きなのは、飛行機の中で誰にも邪魔されず好きな本を読んだり、窓を見ながら上空でぼんやり将来のことや壮大なビジョンを考えたりする時間が大好き。だから最近の機内でインターネットを使えるサービスには大反対!

地方で若いスタッフと仕事をするということ

地方で学生とか若いスタッフと会社をやっていると、「えーじゃあオタク値段も安いんでしょ?」と今でもたまに言われるんですが(もしくはそう思われている)、「地方で若いスタッフだから東京より安く仕事ができる」のではなく「地方で優秀な若いスタッフに東京並の給料を払えば、とても満足してものすごく頑張っていい仕事をしてくれる」というのが正解です。

Jun Yamadera

A Monk among the Priests: “I’m a real rebel with a cause”. Unicorn/Chief Chaos Officer, Eyes, JAPAN http://www.nowhere.co.jp/

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