炭素という新たな建築の尺度

連載:前衛としての社会、後衛としての建築──現代アメリカに見る建築の解体の行方(序論+その1)

鮫島卓臣/ Takuomi Samejima
建築討論
20 min readDec 29, 2021

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序論──アメリカ現代建築を『建築の解体』を通して見るということ

本連載はアメリカ現代建築についての論考であり、米国内のアカデミア、論壇、プラクティスにおいてリアルタイムで起こっている様々な議論についての2022年時点での総括を全6回のエッセイを通して試みる。多くの情報は、私自身が2019年から現在に至るまでの約2年間、アメリカ合衆国(以下アメリカと略す)、そしてイェールの建築大学院で過ごす中で、日本人留学生として観察してきたものを土台としている。

アメリカでは現在、建築はどのように社会と接続し、社会に受け入れられているのだろうか? 多様性を国家の基礎とし、様々な価値観が共存するアメリカ。そこでの建築にまつわる種々の議論は、今日どのようにまとめることができるだろうか? この問いに答えるべく私が着目するのは磯崎新による「建築の解体:1968年の建築情況」とそこで提示される問題意識だ。

建築の解体 — 1968年の建築情況 -、磯崎新、鹿島出版社 (1975、1997再版)

出版後約50年が経過した本著は、五月革命やベトナム反戦などの1960年代当時の様々な社会制度に対する国際的な解体の気運への応答として、インフォマティクスやポップカルチャー、グラフィックを武器に産業社会の転覆を試みる日本国外の前衛的な「ラディカル・アーキテクト」を紹介するものとなっている。磯崎が言うように、「建築の解体」における「建築」とはすなわち、近代建築以後に大量消費社会の一部として組み込まれ、形式化・制度化された建築の概念を指している。その制度的な建築への攻撃を仕掛ける人物としてロバート・ヴェンチューリ、チャールズ・ムーアやクリストファー・アレグザンダーといったポストモダンを代表するアメリカ人建築家も取り上げられているが、私がここで着目したいのは磯崎による彼らの総括である。

母の家、ロバート・ヴェンチューリ (1964) Venturi, Robert. “Complexity and Contradiction in Architecture”. Museum of Modern Art, New York. 1966. pp.119

磯崎は彼らの活動が、「20年代の英雄たちの作業が [中略] インターナショナル・スタイルと機能主義的方法という堅固なイデオロギーに収斂していったのに比べて、全体がひとつの流れに向かうという傾向性を認めることは困難である」(磯崎新. 建築の解体 — 1968年の建築情況 -. 鹿島出版社. 1997. pp.300、強調は引用者による)とした上で、その要因が「主題の不在」にあると指摘する。近代建築がテクノロジーという主題を追求する事で、一つの形式化された建築の概念に到達したのに対し、ポストモダンにおいてはそもそも統一的な主題が認められないと磯崎は言うのだ。このような時、建築家たちの仕事は表層の言語の開発に終始すると同時に、方向性の異なる多様なアプローチが共存した状態になるのである。

主題が不在になったとみることは、中心をひとつの空洞、あるいは空虚と措定することである。[中略]絶対的な主題が空洞化されたため、表層は、見かけ上では多様化する。開発されていく手法も、多岐にわたるだろう。[中略]本書、『建築の解体』の意図は、60年代の多様化したこれらの手法を追跡していくことにあったのだが、その挙句に埋めることのできない巨大な空洞に突き当たった感がある。 「主題の不在」という主題がそれだ。いうならば、 異なったヴェクトルをもつ多くの作家たちの仕事は、空洞の中心への吸引を常に感じ取りながら、その空洞の周辺に網を張り巡らしているのである。(磯崎新. 建築の解体 — 1968年の建築情況 -. 鹿島出版社. 1997. pp.399、強調は引用者による)

図では以下のように表現できる。

近代建築と1960年代の建築的情況の比較

磯崎が証言するように、60年代の解体は学生闘争や反戦運動と共鳴し、既存の制度を自意識的に攻撃する極めて内向きな視点を持った運動であった。運動の目的が常に建築の概念の内側にあるのである。しかしこのような解体の結末は悲劇的であろう事を1997年の再版に寄せて磯崎は自戒するのである。

〈はじまり〉を捜していたはずのラディカリズムは、その〈おわり〉がみえるまで運動を停止しないことを学んだ[中略]デザインのような産業社会がみずからの生産物にかたちを与えるために産出した職業領域は、産業社会のエスタブリッシュされた制度を批判するときには、自らも否定せねばならないという自己言及的な批判を加えられていくことを知ることになる。[中略]その制度に〈死=おわり〉を宣告せねばならないとするならば、その宣告の刃の行先は宣告する本人にこそむけられてしまう。(磯崎新. 建築の解体 — 1968年の建築情況 -. 鹿島出版社. 1997. pp.iii、強調は引用者による)

すなわち、建築における制度的な産業構造への異議申し立てをするという事は、そもそも産業社会をその土台とする建築に対する自己批判に陥り、前衛的なラディカリズムの行く末は建築自身に対する「死刑宣告」である、と磯崎は結論付けるのである。

では、なぜ1968年の「建築の解体」とそこでの問題意識が2022年の現代アメリカ建築を考える上で重要なのだろうか?それはアメリカ国内において「建築の制度を解体しなければならない」という気運がここ10年で再び高まっているからだ。それは、環境危機や⼤量絶滅、直近のコロナ禍などの地球規模の問題のみならず、BLM 運動や西洋中心主義批判といった⼈権にも関わる問題により、建築のあらゆる制度の根本的な解体がもはや⼀部の社会的な要求ではなく、⼈間存在をかけた⾄上命題となっている、という意識が強く共有されているためである。

磯崎が総括した60年代の解体が、主題を失った自己批判的で「内向き」な運動であったのに対し、現代アメリカにおける解体は、明確な主題を建築の概念の外に認める「外向き」な運動であると言える。すなわち、建築の制度の解体という「死刑宣告」が既に必要不可欠な前提条件として共有され、建築の既成概念の外からくる社会的な要請に対し、前衛ではなくむしろ後衛としてのラディカルさを求められているのである。社会的な要請は環境、あるいは人種・他者、または情報やテクノロジーなどの様々な主題を浮上させる。

現代アメリカにおける建築的状況

アメリカ現代建築は、建築の既存の制度の行き詰まりという意味でDead End(行き止まり)であると同時に、後衛として既成概念を壊してでも社会に応答し、人間社会の存続に向けて前進し続けなければならないという意味でOne Way(一方通行)なのである。

さて、ここからはいよいよ連載の本論を書いていく。

初回は「環境」を主題とし、産業社会と建築という因子と地球温暖化という結果をつなぐ「炭素=カーボン」に着目する。磯崎が提示した大量消費社会とそれに従属する建築という問題意識は、地球温暖化という思いも寄らない形で「建築の解体」がその根源的なレベルで必要不可欠である事を私たちに知らしめたのである。

アメリカの建築界隈における中心的な議論は、炭素を定量的に考える場合(どうやって炭素の空気中への排出を減らすか?)と、炭素から定性的に既存の建築・都市構造を見直す場合(炭素の排出を助長させない建築・都市の在り方はどういうものか?)の2つに大別できると言える。まずは前者から見ていきたい。

量としての炭素:カーボンニュートラルデザインの一般化

The Green New Deal, Jeremy Rifkin (2019) Rifkin, Jeremy. “The Green New Deal: Why the Fossil Fuel Civilization Will Collapse by 2028, and the Bold Economic Plan to Save Life on Earth”. St Martins Press, New York. 2019

炭素は主に化石燃料や有機物の燃焼により、温室効果ガスとして空気中に排出される。その大部分を占める二酸化炭素は空気中に数百年から千年近く留まると言われており、今すぐにでもその排出を抑えなければ数世代先の人類がその負債に苦しむ事になる。 国連は2015年のパリ協定において2050年までに世界中の二酸化炭素の排出量をゼロに抑えなければ人類全体への壊滅的な被害は免れないと警鐘を鳴らし、アメリカでは「 グリーン・ニューディール政策 」なども注目を集めた。

さて、建築分野による二酸化炭素排出量は世界全体の何%を占めているのだろうか?Architecture 2030によれば、およそ40%が建築関連(内28%が建物の維持管理、11%が建物の建設・材料生産)によるものという 調査結果 を示している。また、2021年2月出版のビル・ゲイツによる「How to Avoid a Climate Disaster」によれば、年間510億トンの二酸化炭素排出量の内31%が建築・土木を含めたいわゆる「もの」の生産によるとし、その主要な材料をコンクリート、鋼材、プラスチックとしている。ビル・ゲイツの推定が建物の維持管理を含めていない点を鑑みれば、少なくとも3~4割の二酸化炭素の年間排出が建築関連によるものだと見てほぼ間違いはないだろう(Gates, Bill. “How to Avoid a Climate Disaster: The Solutions We Have and the Breakthroughs We Need”, Alfred A. Knopf, New York. 2021)。

世界全体のCO2排出量のうちの建築部門の割合, Architecture 2030. 2018. “Why The Building Sector?”. https://architecture2030.org/why-the-building-sector/

この問題に対し、アメリカの実務では、いわゆる「環境設計(サステイナブル)コンサルタント」という職能が注目を集めている。ロンドン発で2001年にニューヨークに拠点を移した「Atelier Ten」は、主に設備設計を通して炭素収支がゼロかつ再生可能エネルギーによって運用可能な建築の実現に尽力している。このグループはコンサルティングのみならず、ランドスケープデザインにおける土壌や舗装、木材やコンクリートといった材料の使用量から炭素収支を即座に算出するアプリ「 Pathfinderの開発や、 単位時間あたりの建物の電力利用による炭素収支を予測するツールを開発し、設備設計の指標とすることで、より温室効果ガスを排出しない電力供給網を実現するなど、「カーボンニュートラルデザイン」に特化した試みを数多く行っている。このような環境設計の価値は年々高まっており、一定規模以上のプロジェクトには必ずと言っていいほど環境設計コンサルタントが介入している。このように 炭素という指標がマテリアルの選定や、設計における様々な決定事項を本格的に左右する時代 が訪れているのだ。

マテリアルに着目することで、建築そのものに炭素を貯蔵する「 カーボンバンク」という新たな役割を見出す建築家もいる。イェール大で教鞭も執るアラン・オーガンスキは、炭素排出量の大きいコンクリートや鋼材の代わりに集成材による都市環境の形成を提唱し、Timber Cityという研究組織を立ち上げ、地域の森林マネジメントと集成材の生産・利用の間の共依存的な関係性の構築を模索している。木材がその生産過程を含めて1トンあたり平均約0.5トンの炭素を材料内に貯蓄する(比較として鋼材は1トンあたり約0.5トンもの炭素を空気中に排出する)というデータを元に、集成材を都市の基盤となる材料とし、それらのライフスパンの適切な管理と材の再利用を通して、建築生産を森林の炭素授受のサイクルの中に組み込む構想である。

建物をカーボンバンクとして利用したTimber City構想
地域の森林と都市の間で木材を介した共生関係を築く

この取り組みの重要な点は、単にマーケットにある木材を炭素貯蔵の観点からむやみに利用するのではなく、森林科学から逆算したマテリアルサイクルの実現を通して、テクノクラート的資本主義から生まれる体系とは全く別のシステムを標榜している点だろう。特にアメリカでは木を枯れさせてしまうブライトという伝染病や、森林火災といった人為的伐採を要する問題も深刻であり、森林の課題と建築の生産を計画的に連携させるのもこの構想の重要なテーマの一つである。Gray Organschi Architectureではこの一環として、スタジオ併設の木材加工場と地元の材木店や地域の森林研究家などと協働で、炭素を排出せず積極的に貯蓄していく新しい建築の在り方を模索している。

Common Ground High School, Gray Organschi Architecture (2019)

これは日本でも活発に議論と導入が進められているテーマである。林業における川上と川下の連携は国を跨いで議論できる問題であり、国際的に取り組みや研究成果が共有されていけば、双方が抱える課題の突破口が見えてくるかもしれない。

Timber Cityのような都市スケールでの構想を実現するために、行政や自治体が炭素の貨幣化を進めているというのも注目するべき点だろう。アメリカ東海岸では各州がRGGI (the Regional Greenhouse Gas Initiative)という協定を基に、エネルギー部門による1年間の各地域の許容炭素排出量を予算として可視化し、CO2キャップという形で規制を設けている。ボストンではOlifantという組織が主体となって、集成材利用をデベロッパーに促すタックスインセンティブの導入が進められている。他にもカーボンニュートラルデザインによる容積率緩和や、建物・プログラムの炭素収支から逆算したゾーニング法などの導入も検討されており、炭素の定量的な指標によって建築にまつわる法や規制が変化していくのはほぼ確実とみていいだろう。

炭素の排出に依存しない社会へ:炭素由来事物の超克

ここまで炭素を定量的に捉えた取り組みを紹介してきたが、もう一方の「 炭素から定性的に建築・都市の在り方を考える」とはどういうことだろうか?これは炭素が既存の社会システムの中で排出される過程を考える事で、その社会システムの構造や仕組み自体を定性的に批判し、それらの空間的発現として建築・都市を捉えて見直していこう、という議論である。キーワードの一つとなるのが「化石燃料」だ。世界のエネルギー供給の約8割以上を石炭・石油の燃焼とそれに伴うCO2の排出に頼る現代はまさしく「化石燃料社会」なのである。この仕組みを根本的に変えていかなければ、温暖化問題の解決は不可能と言っても過言ではない。一方で、化石燃料は産業革命以後の近代社会の発展にとって欠かせないファクターであったというのもまた事実である。そして近代社会を作り上げてきた建築と都市、そこから受け継がれてきた現代の空間構造の中にこそ、化石燃料などを媒介とした炭素の排出を前提とした社会を促進させる仕組みがあると指摘するのが建築家・批評家のエリーサ・イトゥルベである。

化石燃料による農耕社会から産業社会への移行は、工場町や国際的な貿易ネットワーク、郊外やメガシティなどの実現を可能にした。この直近の空間的パラダイムを私は「Carbon Form (以下「炭素由来事物」と訳す)」と定義する。[中略] 文化的イデオロギーとしてのモダニズムは確かに死んだが、私たちは その根源的イデオロギーである「カーボン・モダニティ」の死が未だ訪れていない事を見逃してきたのである。(Iturbe, Elisa. “Architecture and the Death of Carbon Modernity”, Log 47, Anyone corporation, New York. 2019. pp.11, 16、筆者訳、強調は引用者による)

イトゥルベは炭素の排出を前提とした事物を「炭素由来事物」(建築のみならず、プラスチックバッグといった”もの”や労働形態といった仕組みも含む)と幅広く記した上で、それら炭素由来事物の基に成立した建築の概念としてのモダニズムは確かに死んだが、化石燃料というエネルギーパラダイムの上に立つ「カーボン・モダニティ」という根源的な意味での近代は未だ死んでいないと指摘するのである。そして現代における様々な炭素由来事物とそれ自身炭素由来事物である建築・都市の関係性を定性的に批判・分析し、その上で炭素の排出に依存しない・させない新たな空間構造の在り方を模索するべきだと議論するのである。

建築において最もわかりやすい炭素由来事物の例として、イトゥルベはコルビュジエによる都市計画や「サヴォワ邸」を挙げる(前掲書.pp.15)。

パリ-ヴォワザン計画、ル・コルビュジエ (1925) Le Corbusier, “The City of Tomorrow and its Planning”, Dover Publications Inc. New York, 1987, pp.289
サヴォワ邸の一階ピロティと曲線、及び写真左のガレージ(筆者撮影)

中世の非直線的な道を「ロバの道」と批判し、近代都市の核心は車社会を軸とした真っ直ぐな道による効率性の追求にあるとしたコルビュジエの都市計画群は、車という炭素由来事物の利用を助長する、これまた一つの巨大な炭素由来事物なのである。一階部分におけるピロティと曲線が車の旋回半径と車庫から導出されたサヴォワ邸もまた然りなのである。こうして考えると、私たちの身の回りは炭素の排出によって成立する無数の物や仕組みと、それに癒着した様々な空間構造という、炭素由来事物による膨大なネットワークそのものであるという事実が見えてくるのである。そしてこのネットワークを認識する事で、そこには建物自体のエネルギー効率や定量的な炭素の議論だけでは回収しきれない、根源的に炭素由来事物を成立させる政治・経済・社会的、さらには空間的な問題が根深く残っていることに気づかなければいけない、とイトゥルベは議論を展開するのである。そして化石燃料にとってそうであったように、建築を空間を通して様々な仕組みやシステムを構築する強力な武器として認識する事で、建築の空間で「炭素の排出を前提とした社会」を転覆できる可能性が見出せるのではないか?と結論づけるのである(Le Corbusier, “The City of Tomorrow and its Planning”, Dover Publications Inc. New York, 1987, pp.270–271参照)。

建築はかつてないほど無力であると同時に、かつてないほど強力な存在なのである。[中略] 建築が現代の都市構造を変えうるとしたら、それは設備システムやファブリケーション、デザインソフトウェアといった技術的進歩ではなく、建築家たちがいかにラディカルに炭素を起爆剤とした無限の成長という神話を拒絶し、来たるエネルギー転換と新しい社会形態の下敷きとなるような空間を敷衍できるかにかかっているのである。(前掲書. pp.21、筆者訳、強調は引用者による)

イェール大学ではイトゥルベ指導の元、この炭素由来事物という視点を通したセミナーとスタジオ課題が毎年開催されており、以下に学生によるいくつかのリサーチ・作品を紹介する。

カナダのグレベール計画における公園交通網の再定義と解体 イェール建築大学院修士2年生、Jerry Chow (2023年卒業予定)によるリサーチドローイング、掲載許可取得済

カナダの首都、オタワにおけるフランス人建築家、ジャック・グレベールによるグリーンベルトを軸とした都市計画に関するリサーチ。交通網や街区の増殖可能性という都市のロジックを炭素由来事物と捉え、一見環境に優しいと思えるグリーンベルトのリニアな展開がこのロジックに加担していることを暴いた上で、線状の緑地を面的に展開し都市の増殖可能性を抑制する提案。

レバノンにおけるパワーバージに依存したエネルギー供給網の解体 イェール建築大学院修士3年生、Hannah Mayer Baydoun (2022年卒業予定)によるリサーチドローイング、掲載許可取得済

化石燃料主導の移動式発電所=パワーバージが国のエネルギー源となっているレバノン。本来応急処置的なパワーバージに頼らざるを得ない状況を作り出した国の契約主義的政治と汚職、それに伴う紛争によって都市が分断されたままスプロールし、極めて非効率的なエネルギー供給が為されていることを指摘。政治や外交問題、国内紛争も炭素由来事物の一部になりうるという事例。

ブルックリンの共有農地化による脱炭素型食糧ネットワークの提案 イェール建築大学院修士3年生、Abby Sandler, Wenzhu Shentu (2022年、2023年卒業予定)によるスタジオ作品、掲載許可取得済

輸出入を基盤とするブルックリンの食糧供給システムを一つの巨大な炭素由来事物と捉え、地域の小学校主導による共有農地と地産地消を軸とした食文化の創出を教育プログラムに組み込む事で、空間と教育を通して炭素由来事物に依存しない未来のコミュニティの在り方を提示するプロジェクト。

2019年秋には建築ジャーナルLogにおいて、「 Log 47: 炭素由来事物の超克 」と題してイトゥルベ主導のもと様々な建築関係者の言説を集めた特集が組まれた。炭素由来事物という建築・都市の見方を通して暴かれる、社会に潜む様々な欠陥に、どのような新しい「フォーム」を与えていくかが今後数年の議論の焦点となるだろう。

量と性質の交点から

このように、アメリカでは現在、炭素による定量的な指標と炭素由来の事物の定性的な振る舞いを認識することが、建築の在り方を考える上で最も重要なファクターの一つとなりつつある。この流れを便宜上「定量的」「定性的」と大別して論を展開させていただいたが、これら全ての動きは互いに密接に関わっており、むしろその結節点にこそ今後における展開の可能性が見えてくるだろう。環境問題に取り組むアメリカ社会という前衛に対し、後衛としての建築が今後どのような新しい価値を創出していくのか、注目したいところである。

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鮫島卓臣/ Takuomi Samejima
建築討論

イェール大学建築大学院修士3年生(Yale School of Architecture, M.Arch1,23')2019年度フルブライト奨学生(Fulbright Scholar 2019)