理性と感性

建築を作るときには論理的な説明がいつだって必要だ。なぜならば使う人への説明や建築を作る人々への説明が必要だからだ。

しかし理性と論理だけでは空間というものは美しい空間というものは完成しないと思う。理性とは別の感性がどうしても必要な時がある。それは色の配色であったりするかもしれないし、建築のプロポーションかもしれない。あるいは装飾的なデザインかもしれない。

真っ白な箱の非装飾的な空間は近代的で明快な合理精神が成しえた一つの到達点だ。

しかし人間は必ずしも理性だけで行動し生活しているわけではない。むしろ感情や感性によって行動が左右されることのほうが多い。感情によって幸福を感じ、理性によって説明される。論理によって幸福を説明し、感情でそれを感じとるだろうか?

哲学者のヒュームいわく" 理性は情熱の奴隷である"このことは人間の本質的な部分に通底すると思う。

初期コルビジェ建築の光に満たされた開放的な建築は理性に対する謳歌であり、それまでの暗く閉塞的な建築へのアンチテーゼであったに違いない。

そうして現代日本においてはますます理性的で論理的な建築が求められている。それは設備的な機能性、環境性能、耐震性などのもろもろの”建築の性能”に関わることが要求されているからだ。しかしそれは建築の持っている一つの断片に過ぎない。

空間が持っている抽象的なメディア性はますます失われ、空間の詩性は即物的なものへとなり変わっている。

教会や神社が持っている厳かな空間は建築故の表現であると思う。あるいはコンサートホールやスタジアムの持つ祝祭性。私たちがそこに身を投じるときに感じるいくばくかの緊張感や高揚感は空間のもつ力だと思う。

作り手や使い手の感性がそれを実現させているのだと思う。

感性が共有された時、それはその集団の文化を形作られることだと思う。例えばある集団にとってある色が神聖な色になった時、その色の扱われ方は特定の用途に供するものになる。

たくさんの情報が毎日、色々な角度から人々に押し寄せている。感性の共有は引き裂かれ、それぞれの価値観が独立して集団の文化というものを人工的に維持しようとしない限り日々失われ続けている。

(それを再生することは可能か?いや再生することに意味があるのか?制度や地理的条件によって自然発生的に生まれた集団の文化は、やはり自然発生的に生まれ衰退していくべきなのだろうか。まるで絶滅危惧種を保護するような行為は必要なのだろうか。)

素直においしいと感じたり、気持ちいいと感じたりするのは、人類が発生した当初から変わらない感覚だと思う。そういった原初的な感覚は共有できる感性だと思う。論理ではなく身体の感覚で共有できるものをつくりたいと思う。

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