中卒からの英語学習

はじめに

先日、2000語の英文記事を書いた。これは日本語を一切介さず、英語で思考し、英語で構成し、辞書・文法書を使わず自分の中にある語彙・文法力だけで書いたものだ。見る人が見れば稚拙な英文でしかないと思うけど、一応これで自分の求める英語レベルには達したので、これまでの学習履歴を振り返ってみたい。

前提として、タイトルにもあるように僕は中卒である。高校には一応入ったものの数か月しか在籍しておらず、ほとんどまともに授業を受けた覚えがない。さらにいうと中学はいわゆる教育困難校で、ここでもあまりまともに授業を受けた覚えがない。もっというと僕が育ったのは貧困地区だったので、まわりで大学に行く人なんてほとんどいなかったし、当然実家も貧乏だったので、海外旅行など完全にファンタジーの世界であった。このような状況のため、僕の学力レベルは英語に限らず極めて低かった。いまこうして多少なりともまともな日本語の文章を書けているのは、現実逃避で図書館に籠っていた時間が長かったからにすぎない。

前置きが長くなったが、こういった無教養な人間、義務教育すらまともに受けていない無学な人間でも、独学でそれなりの英語力を身に着けられるのだということを、この記事で伝えたい。


準備

僕が英語の勉強を始めたのは二十歳を過ぎてからなのだけど、そもそもまともに「勉強」というものをしたことがなく、何から手を付けていいのか、どうやって勉強すればいいのかさえわからない状態からのスタートだった。だから僕が最初にやったのは学習の全体像の把握と、教材の選定である。

言語学習には様々な段階があるようだったが、まず僕がやるべきは、

  • 基本文法の習得
  • 基本単語の習得

であるとわかった。教材に関しては貧乏ゆえに金はかけられず、文法書と単語帳(とそれ用のCD)を1冊ずつ購入した。

DUO 3.0は20年近く前に出版された単語帳だが、2019年現在においてもこれ以上の単語帳はないように思われる。必須単語が自然な例文に無理なく収まっており、全例文覚える価値がある。実際、英語を学習している人でDUOの例文をすべて暗記している人は多いのではないだろうか。例文になんとなく前後の繋がりがあったり、登場人物たちに味があったりするのもよい。

文法書に関してはこのときは「総合英語Forest」を購入したが、少し前に勉強し直したときは「一億人の英文法」を使用した。どちらも非常に優れた文法書なので自分に合う方を選べばいいと思うが、個人的には後者をお勧めしたい。「総合英語Forest」があらゆる文法をこと細かく網羅しているのに対して、「一億人の英文法」の方は緩急があるというか、重要な部分は執拗なくらい詳細に、そうでないところは「この表現は現代英語としては死にかけ」とか、かなりぶっちゃけた感じで書かれているので、力を入れるべきところ、力を抜いていいところがわかりやすい。前者は辞書・学生の試験対策用、後者は読み物・実際の英会話を必要とする社会人用、といったイメージだ。

フォニックス(発音)や語源(pre 前に dict 話す able 可能 → predictable=予測可能、みたいなやつ)もやった方がいいということを言っている人も多いのだけど、これは個人的には必須ではないように思う。僕もある程度学習が進んだあとに何冊か本を読んでみたのだけど、すでに自分が感覚として身に着けていることの再確認に過ぎなかった。最初の頃に学習していたら少し学習過程をショートカットできたかもしれないな、というくらいの感じだ。一応、お勧めの書籍を以下に挙げておく。


文法

教材の選定が済んだら次は実際の学習に移るわけだが、かなりの人がこの最初の段階、文法学習でつまずいてしまうのではないかと思う。それは非常によくわかる。何せ覚えなければならないことが多すぎるのだ。前節で紹介した文法書はどちらも600ページ超の大書で、その内容を全部覚えるなんてどう考えても無理ゲーである。「勉強の仕方」を知らなかった当時の僕は、本に書かれていることすべてを覚えようとしてしまっていたが、これは言語学習においては最悪である。

たとえば、現代日本人が「学問のすすめ」をある程度読めるのは、古文の文法を多少なりとも感覚として身に着けているからだ。「これは未然形」「これは連用形」などといちいち考える必要はない。それらの文法知識は、この感覚を身に着けるための補助輪にすぎず、その感覚を身に着けたあとは不要になる。最終的な目的はこの感覚を身に着けることで、文法知識はそこに至るための道具にすぎない。

この前提を踏まえてみると、「これは助動詞」「これは前置詞」といったような分類・名称は、さほど重要ではないことがわかる。たしかにそれは文法の理解に必要な知識ではあるけれど、英語の文章それ自体を理解するために必須なものではない。その知識があればよりロジカルに、納得感を持って文章を理解できるようになるが、それは初歩の段階では不要だと言っていい。むしろそれが初期の学習を阻害してしまうのなら無視するべきなのだ。それが必要になるときは必ず来るし、そして人は本当に必要であれば無理なく自分の中に吸収できるものである。きっちりした文法学習はそのときでいい。

以上のようなことに気づくのに僕はかなりの時間を費やしたが、これに気づいてからは「流し読み」ができるようになった。まず一度ざっと通読して英語文法の全体を把握する。自分がこれからどのようなことを勉強しなければならないのか、その総量と位置関係、頭の中に全体のインデックスを作成する。次に読むときはそのインデックスを参照しつつ「自分はいまこのあたりにいる」と意識しながら、前回より少し深く理解するように努める。よくわからないところは付箋を貼っておく。もう一度読むときはその付箋の部分を重点的に、前回よりさらに深く理解できるようにしっかりと読む。その繰り返し。


単語

そうして文法を勉強しつつ単語も並行して覚えていった。文法書と同じく単語帳も一周目は軽く流し読みして全体を把握、もう一度読むときはもう少し深く、よくわからないところには付箋を……といった感じで何度も繰り返し読んだ。文法的にわからないときは文法書の該当箇所を参照する。そしてこのときはその文法知識が「必要になっている」ので無理なく自分の中に吸収できる、という感じだ。

英単語を覚えるときに重要なのは、

  • 字面ではなく音で覚える
  • 概念で覚える
  • フレーズで覚える

ことだと思う。英語は日本語と違って表音文字なので、字面それ自体に意味はなく、そのスペルによって表現される音が意味を持つ。だからCDを聞きつつ、自分で声に出しつつ、音そのものを覚える、音と意味を関連付けて覚えるのがいちばん効率がよかった。

そして英単語を日本語訳に紐づけて覚えるのではなく、概念で覚える。たとえば、embarrassed を「ばつが悪い、恥ずかしい」という日本語に対応させて覚えていると、”embarrassed anime” の画像検索結果のような状況にこの単語が使われてるのがいまいちしっくり来ないはずだ。この embarrassed という単語は、憎からず思っている相手から壁ドンされたときに頬が紅潮するような感情(人前で何か失敗したときに感じる「ばつが悪い、恥ずかしい」という感情と近似)、そういう概念に名前を付けたものにすぎず、そこに日本語を介在させると、何か違うものになってしまう。だから英単語は日本語訳ではなく概念に直結させて覚えた方がいいのだ。

そしてそのためにも単語をフレーズで覚える。どういうシチュエーションで使われる単語なのか、できるだけたくさんの例文で確認し、「こういう概念なのね」と理解し、自分の中に落とし込んでいく。その繰り返し。


海外ドラマ

文法書と単語帳を何度も往復するうちに、基礎的な文法・単語はだんだんと自分のものになってきた。そろそろ別の教材に手を伸ばしてみてもいいのではないかと思い、またいろいろと調べてみて、海外ドラマを見るのがいいのではないかという結論になった。

フレンズ」は英語学習をしている人なら誰もが一度は視聴を検討するタイトルだと思うが、僕もこれを教材として使うことにした。これを選ぶ利点は、

  • 内容が普通におもしろい
  • 1話20分、基本的に1話完結なので、時間のあるときに気軽に見やすい
  • 登場人物たちの使う英語が明瞭で聞き取りやすい
  • 英語学習教材として使っている日本人が非常に多いので「このセリフどういう意味だろう」と思ったときそのフレーズで検索すれば、たいてい誰かが日本語で解説してくれている

特に最後が大きな利点で、文法や単語がわかってもどういう意図で言っているのかがわからない、みたいなときに非常に助かった。

基本的に日本語音声・日本語字幕は一切使わず、英語音声・英語字幕のみで見ていたので、最初は何度も一時停止→わからない表現を調べる、ということを繰り返さければならず、苦行のようだったけど、最終話を見終える頃にはかなりリスニング力が上がっていることを実感できた。そして何周もするうちにセリフを丸ごと覚えてしまっているシーンも多くなり、字幕なしでもだいぶ内容を追えるようになってきた。最終的には全10シーズンを10周した。

ここで初めてTOEICを受けてみたらスコア680(L375/R305)だった。


実践

ここまで来たら次は実践だ。ちょうどまとまったお金が手元にあったので、半年かけて海外をブラブラと旅することにした。最初は東南アジアをまわっていたので、あまり英語を使う機会はなかったけど、後半はインドだったので英語話者が多く、かなり英語をしゃべる機会があった。最初は簡単な会話ですらおぼつかなかったけど、最終的にはちょっとしたジョークをまじえて談笑できるくらいにはなったし、何より日本語が一切通じない環境に身を置いて、それでもなんとかなったという成功体験は、自分がいままで積み上げてきた語学力がハリボテではないということの実感、自信につながった。

そのあとはしばらく英語を使う機会がなかったが、また思わぬ形で必要になった。VRである。2017年中頃にふと思い立ってViveを購入したのだけど、日本ではまだVRユーザーが少なく、最新情報を追いかけるには英語記事を読む必要があったし、マルチプレイのゲームで日本人に会うことなんて皆無で、チームプレイには英語が必須であった。

そして何よりソーシャルVRだ。Rec Room なんかはミニゲーム主体のソーシャルVRなので、会話するにしてもそれほどがっつりコミュニケーションを取るわけではなかったけど、2017年秋頃から流行の兆しを見せ始めた VRChat は完全にコミュニケーション主体のソーシャルVRで、何をするにしてもそれなりの英語力を求められた。いまでこそ日本人ユーザーも多くなったが、この頃は日本人どころか全ユーザーの総数自体が少なく、多種多様な言語圏の人たちが一堂に会した。そしてそういう場で共通語として用いられるのは当然、英語なのである。部屋の中にいながらにしてここまで国際的な場にダイブできるというのは、間違いなくVRの持つ魅力のひとつだろう。駅前留学ならぬ室内留学ができるのだ。

そしてこういう環境にずっと身を置いていると、バイリンガル、トリリンガル、あるいはそれ以上のマルチリンガルというのが普通に思えてくる。英語くらい喋れてあたりまえなのだという気がしてくる(改めて考えてみるとあの頃の状況、母語に加えて英語と中国語と日本語を喋れます、みたい人がゴロゴロいた状況というのはやはりちょっと異常だったのだが……)。そのことは意外にも僕によい結果をもたらした。ハイスペックな人たちに囲まれて、「こういうのが普通なんだ」「これって実際にできることなんだ」という実感を得たことで、いままで高く見えていたハードルが急に低く見えるようになったのである。それはたとえるなら、10センチの定規では測れなかったハードルの高さが、もっと長い物差しを手に入れたことで、正確に測れるようになったようなものだ。実際のハードルの高さはまったく変わっていないのかもしれないけど、実はこういう意識転換って、何かを学ぶ上でけっこう重要なのではないかと思う。

そんなVRChatでの実践の日々を経て再度受けたTOEICのスコアは790(L425/R365)であった。


アウトプットの重要性

自分の実力を測る方法はいろいろある。TOEICのようなテストで機械的な判定を受けるのもいいし、実践の場で能力を使ってみて通用するかどうかを確認するのもいい。しかしもうひとつ、とても有効な方法がある。不特定多数の目に自身を晒すことだ。

たとえば、一口に「足が速い」といってもいろいろである。クラス内で、校内で、県内で、国内で、世界レベルで、どのレベルで「足が速い」のか、井の中の蛙なのかそうでないのかは、その分野に関しての適切な知識と観察眼がなければわからない。自分のことを測るのは難しいが、世の中での自分の正確な立ち位置を見極めることは非常に重要だ。自分を過大評価すればただの痛々しい勘違い野郎になってしまうし、過小評価は萎縮と後退を引き起こす。だから自己評価には定期的なキャリブレーションが必要で、そのためには不特定多数の目に自身を晒すのが効果的なのだ。

僕がそのことに気づいたのは、増田(はてな匿名ダイアリー)に “Hello world!” というエントリを投稿したときのことである。これは僕が生まれて初めて書いた長文だったのだけど、予想外にバズってとても驚いた。その数年後に書いた「人生に物語は要らない」も同程度にバズったようである。どちらも2000ブクマ以上付いているが、これは国会で取り上げられた「保育園落ちた日本死ね!!!」というエントリと同程度のブクマ数である。Kindleのセルフパブリッシングで出版した「ハッピーエンドは欲しくない」という電子書籍は現在40レビュー付いており、全体的に評価が高い。僕の本業はウェブ系のプログラマなのだけど、Qiitaに初めて投稿した技術記事「HTTP/1.1 200 OK」は1600いいね以上付いた。

僕はずっと「日本語の文章なんて日本語ネイティブなら誰でも書ける」と思っていたが、「人が読むに耐える文章を書く能力はまた別で、それは誰にでも備わっているわけではない」ということ、そしてその能力が自分にはあるのかもしれないということを、こうした繰り返しの結果、ようやく理解した。それは自分の中にあるものをアウトプットし、不特定多数の目に晒してみなければ絶対にわからなかったことである。

ここ(Medium)に投稿した「VRChat それは満天の星空のように」という記事もそんなアウトプットのひとつなのだけど、ふと思い立ってこれを英訳してみることにした。というのも、前回のTOEICのリーディングパートの結果が少しショックだったからだ。VRChat内で会話したり、Discordでチャットしたり、以前より英語を使う機会は増えたものの、どれもその場限りの「使い捨て」の英語であり、しっかりした英文を書く機会がほとんどなかった。リーディングパートの結果が悪かったのはこれが原因ではないか。もっとちゃんとした英作文スキルを身に着けるべきではないか。VRChatの歴史についてまとめた記事は英語圏にも皆無だし、この記事を英訳する価値は十分にある。英作文スキルを鍛えるための素材として最適であるように思われた。

9000字近い長文記事なので翻訳作業は大変だったが、その過程で、自分がいままでいかに雑な文法で英語を使っていたか、自分に足りていないものは何だったのかを知ることができた。そして何より、知らない人たちからのみならず、自分が尊敬する人たちからも「よく書けてる」という評価をもらえたこと、「感動した」とさえ言ってくれたことが、単純に嬉しかった。英語でも日本語と同じように誰かの心を動かすことができるのだという事実 — 考えてみればあたりまえのことなのだが — これも実際にアウトプットしてみなければ得られなかった実感である。


思考言語を切り替える

そんなことを繰り返すうち、だんだんと英語が本当の意味で自分のものになってきた。CNNBBC の政治ニュースを読んだり聞いたりするのはまだ難しいものの、Reddit で一般ユーザーが書き込んでいるたわいないやりとりにクスリとしたり、海外ドラマを見ていているときも英語のフィーリングをそのまま感じ取り、登場人物たちに共感したり、感動したりするようになってきた。そしてそういうときは頭の中で日本語を一切介していない……思考言語そのものが日本語から英語に切り替わっているのである。

日本語から英語への変換にはどうしても無理が出る。VRChatの歴史記事を翻訳しているときも「この日本語、英語でどう表現すればいいんだ?」となることが多く、そのせいで不自然な表現になってしまった箇所、文章の流れ・リズムが悪くなってしまった箇所が多々ある。これなら最初から英語で書いた方が早かったのでは、とさえ思った。だから次があるなら翻訳ではなく最初から英語で記事を書こうと思っていたのだけど、特に書きたいテーマもなかったので、保留タスクとなっていた。

話は変わるが、僕は RWBY というUSアニメが好きで、ずっと追いかけている。もう6年以上続いている長期シリーズなのだけど、今期(Volume 6)は物語に大きな動きがあり、さまざまな考察・議論があちこちで行われた。僕も独自の考察を行っていたのだけど、英語圏の考察記事を読み漁っても、僕が持つ視点から語ったものは見受けられなかった。もしかしてこれって非ネイティブだからこその視点なのでは……よしそれなら、と自分も考察記事を書くことにした。今度は最初から英語で。

それが冒頭で紹介した2000語の英文記事である。これは日本語を一切介さず、英語で思考し、英語で構成し、辞書・文法書を使わず自分の中にある語彙・文法力だけで書いたものだ。VRChatの歴史記事と比べて、より自然な英文で、ひっかかりなく読めるはずである。

完全に思考言語を切り替えて記事を書き上げることができた、という事実もそうなのだけど、今回は「非ネイティブががんばって英文記事を書いた」ことではなく、書いた内容、考察自体を評価してくれる人がたくさんいて、そのことでまた少し自己評価を上げることができた。やはりアウトプットは重要である。


おわりに

以上が僕のこれまでたどってきた英語学習のあらましである。前回のTOEICから1年経っているので、いまは確実にスコア800台にはなっていると思うが、900には少し届かない、という感じだろうか。まだまだペラペラとはほど遠いものの、一応自分の求める最低ラインには達することができたと思う。

そして、ここに至ってひとつわかったことがある。言語とは、思考体系そのものなのだということだ。今回書いた2000語の英文記事は、英語で思考し、それをそのまま英語で出力したからこそ書けた内容で、どこかで日本語を介していたら、まったく違う内容になっていたはずだ。たとえば、Make sense は頻出イディオムだが、日本語で思考していたら絶対に出てこない言い回しである。Fair や Share といった概念も、外来語としてのカタカナ書きのフェアやシェアよりもっと深い意味合いがあり、英語として使わなければ本来のニュアンスは引き出せない。

どちらが上でどちらが下という話ではない。実際、日本語はいい言語だと思う。これほど多くの文献が(大衆向けから専門家向けまで幅広く)翻訳されている言語はそうそうないし、国内に住んでいれば日本語以外を必要とする機会なんてほとんどない。海外に出ないのなら英語なんて不要だと言っていい。だけどそれでも外国語を学ぶ意義はある、と僕は思う。英語じゃなくて中国語でもいいし、韓国語でも、ロシア語でもいい。自分の母語とは違う言語を学ぶこと、それ自体に価値がある。その言語圏の人たちとコミュニケーションが取れる、その言語で書かれた文献が読めるという、それ以上のものを手にできるから。新しい言語を習得することは、新しい思考体系を自分の中に構築することと同義だからだ。

これは他の分野でも同じである。たとえば歴史を深く学んだ人は、ふらりと立ち寄った街の駅前にある何の変哲もない銅像が、どうしてそこにあるのか、どういう意味があるのかわかるかもしれない。そこから何か深く感じ入ることさえできるかもしれない。経済を深く学んだ人は日頃のニュースが違ったふうに聞こえているかもしれないし、数学を深く学んだ人は数式をより感覚的にとらえているかもしれない。きっと、何かを深く学ぶということは、新しい世界の見方を手に入れるということなのだ。そして新しい世界の見方を手に入れると、いままで気付けなかったことに気付けるようになる。ぼやけていた視界がクリアになる。灰色だった景色が色鮮やかになる。世界の解像度が上がる。

それこそを、人は教養と呼ぶのではなかったか。そして外国語とは、そんな教養のひとつなのだ。

まともな教育を受けられなかった僕はそのことに気付くまでに長い長い時間がかかってしまったが、本稿が同じような境遇にある人の助けになれば幸いである。