
なぜ、我々はブログを書くのか。(序)
〜かつての日々を思い出しながら
はい、ブログジェリーです。いつものように、ノープランで書きます。
そもそも、なんでブログジェリーてなものを始めたかというと、ブログを継続的に書くのって結構しんどいのよね、でも、一緒に書く人がいたら、そういうイベントにして参加したら、なにがどーでも書かざるをえない状況に自分を追い込んで、ヒーヒー言いながらでも首尾よく一本書けるんじゃないかという、極めて他力本願的な目的を以って始めたわけです。
ところが、はじめてみると、毎回、ただ書くだけじゃなくて参加者のおかげでいろいろオモシロイ仕掛けやルールを思いつき、コメントを交換するとか、書いたブログのURLを参加者以外にも公開するとか、あげくにオンラインでの参加も募るとか、その都度試しながら、今に至ってるわけで、今考えたら、実に今回33回めという、別に区切りのいい数字でもないんですが、知らぬ間に回数を重ねてて、ああ、それで、そもそもなんでブログを?というテーマを思いついたのかなと、変に自分に感心しているところです。
ただ、ちょっと冷静になってみると、そもそも「なんで継続的に書かねばならないのか」という問いに、明瞭な答えを用意しているわけではないことに、ここでまた、はたと気づくわけです。
これには、実はちょっとしたトラウマがあって、あれは何年前でしょうか、毎日毎日、取り憑かれたようにブログを書きなぐってた日々があって、確か2年間で700本ぐらいのブログをアップしてました。
最初は、当時、日本最大のSNSだったmixiに友達関係の人だけが読める環境で書いてて、それをあるとき知り合いの編集者が「それを下書きにして、mixiの外で仕上げてオープンに公開したらいいんじゃないの?」と諭されて、ほんじゃそうしてみようとブログを始めたのが、うーんと、確か、2007年〜2008年あたりかと。違ってたら、あとで訂正します。
テーマは、海外のウェブビジネスの動向、主に新しいウェブサービスのリポートを海外メディアで読んで、「お、こりゃ、日本でもありえるかも」とか「これ、日本でやったらイケるんじゃないか」とか思えるネタを日本語で(当たり前ですけど)書いてた。それを、ほぼ毎日。
当時、キュレーションという言葉は(学術的な世界では普通に使ってることですけど、ウェブ系には)なかったので、自分としては単に「紹介者」的な立ち位置で、ただし、自分がオモシロイと感じれるものだけを、それこそキュレートして、元ネタを咀嚼しつつ、イメージをつかめるような日本語に置き換えて(まあ、抄訳と意訳ですね)、そこに自分なりの考えとか感想とかを加えて、毎日一本ずつ頑張って書いてて、正直かなりキツイことではあったんですが、人様よりちょっと早く情報をキャッチして伝えてあげるという役割が楽しくて、それで続けられたんですね。いま、思えば、この「楽しくて」がキーポイントだったかなと思います。
ところがその後、このブログを起点にいろんなことが起こります。
まず、そのmixiさんがやってきました。神戸のぼくの事務所に(当時、まだコワーキングははじめてなかったので、事務所借りてました。ちなみに、いまのカフーツの2階)。正しくは、その関連会社の方ですが、2名、わざわざ東京から。
「は?なんで?」と思いつつお話を伺うと、「あーた、アメリカのウェブ業界の動向について随分ブログ書いておられますね。で、お訊きしますが、日本でソーシャルコマースって、これから、どうですかね?」と。
オドロキましたね。でも、気分いいですよね。自分の書いてきたブログを読んで、もっと詳しく話しを訊かせろ、とこうですものね。もちろん、「日本でもぜひおやりになるべきです」とかなんとか、例のごとく調子に乗って持論をまくしたてたはずです。興奮してたので、記憶が判然としませんが。
そのあとも、いろいろお仕事をいただきました。アスキーさんから出てた「インターネットでお店やろうよ」というムック本に海外のネットショップ関連の連載コラムを書かせていただいたり、マーケジンでも同じように海外ネタで書かせてもらったり。
ちなみに、今見たら、当時書いてた記事がまだありました。下記にまとまってます。ただし、これらの記事で紹介しているウェブサービスの中には、すでになくなっているものもたくさんあります。嗚呼、盛者必衰の理あり。
http://markezine.jp/author/681
ただ、その後、ワレモワレモといわゆる「キュレーター」がどんどん参入してきて、それを見て、「いまやぼくはその何百人のうちのひとりなのね、そーなのね」となぜか感傷的な気分に浸った途端、急速にネタを繰る手のスピードを失っていったわけで。
何でしょうか、飽きたというわけでもないのですが、不遜ではありますけど、英語を日本語に置き換えるだけで考察やツッコミやアイデアの披露のない記事になんとまぁ、と思い、その書き手のひとりみたいに思われるのもなんだかなぁと、まあ、ゴーマンかましただけですけど。
蛇足ですが、でもその経験があったおかげで、後年、翻訳本の企画を持ち込んで、なんとか出版にこぎつけることもできたわけで、この時のご縁はとても有り難く思っています。
えーと、なんでしたっけ、ああそうそう、そんなことがあったものですから、「毎日書くのは当たり前」とか、「継続的に発信し続けなければ評価されない」とか、いわばこの業界(というのか)の常識(らしくまことしやかに語られる言葉)に、無意識に縛られてた気がします。
もちろん、ここで検索エンジンのアルゴリズムを無視するわけにはいきません。最新情報を高頻度で更新するサイトが検索上位に表示されるという、あのアルゴリズムとかいうやつ。
ただ、これも最近では、更新頻度よりも検索者がたどり着いて閲覧した時に本当に役に立つと判断されるであろうサイトが、その検索エンジンにおいて評価を高くするという新ルールに置き換えられていることも、人間が価値あると考えるウェブサイトのあるべき姿について非常に多くのことを物語っていると言えます。
つまり、頻度よりも大切なことがある、ということですね。
ブログを書いて自分からウェブ上に発信することで、人の目を引くことができ、仕事案件の獲得につながる。文字通り、自分メディアを構築して自分を買ってもらう。こういう振る舞いは、我々、ウェブの仕事をする個人・零細事業者の常套手段ではあります。
ではありますけれども、ただただ毎日、継続的に書くことのみを優先するあまり、その中身、つまりコンテンツの質は二の次にしてしまってやしませんかね、旦那、とまた別の自分が耳打ちしてきたのは、このブログジェリーを始める、つい1ヶ月ほど前のこと。いや実は、ずっと思ってました。2年間、700本、書いていた自分としては。
ある意味でブログジェリーは、いわば、こういうおかしな流れに抗うカツドウとして始めたようなものです。2週間に一回しかブログをアップしない、それでも、読まれるメディアとして存続させるにはどうしたらいいか。むしろ、書いてから2週間は賞味期間が続く、そういう記事をどう書くか、それを探る意味も、実は込められていたわけで。
それと、何年も前に書いたブログに手を入れて、今読んでも読むに耐える、得るものがあるコンテンツに仕立て直すということされている方がいて、そのことにも共感したことも付け加えておきます。
いたずらに更新頻度(記事数)を競わない、というぼくの理想を補完するものとして、この「手入れを繰り返す」「仕立て直す」という行為は、もちろんこれも検索エンジンのゴキゲンを伺うには有効なことではありますけれども、そのことよりも生身の人間が読むことを考えれば、非常に大切な営為であると認めざるを得ません。
ブログは記録であり、情報伝達であり、疑問の提示であり、意見表明であり、あなたが何者であるかを表現し、書き手と読み手をつなぎ、そして次のアクションを起こさせる銃爪です。
そしてそれは、その内容と同様に、いやもしかしたらそれ以上に、ブログを書くという行為自体があなたのすべてを物語っているとも言えそうです。書くことは自分を表現する、その事以外ナニモノでもない、そう思っています。
このテーマ、書き出してからすぐに「デカすぎ」と気づきましたが、キーを打つ手がここまで止まりませんでした。今日はそろそろ終わりにしますが、いま考えていることをきちんとまとめるよう、もう少し書き続けたいと思います。ただし、続きは2週間後に。
今日も最後まで読んでいただき有難うございました。