覇気のないひきこもりが弁護士ドットコムに入るまで

この度、転職をすることになりまして、人生の棚卸しをする機会がありましたので文章にまとめてみました。長文かつ学びが少なめに設計された文章ですので、ひまなときにお読みください。

※ なお転職についてはこちらにかきました。

覇気のないひきこもり

中学校の最後あたりから学校への興味を失い、高校に入学したもののすぐに不登校になりました。

そして一年間、家に引きこもってゲームをしていました。昼に起きて翌朝までゲームをして寝る、という堕落した生活。

ある朝、パートに出かける前の母親がゲームをする私の後ろ姿をじっと見ていました。無視してゲームを続けていると「アンタの人生には覇気がない」と言い残して、去っていきました。「そうか、俺の人生には覇気がないんだな」と妙に納得したことを覚えています。

ひきこもりを脱したのは、ゲームに飽きたからです。ゲームソフトは「信長の野望 天翔記」しか持っておらず、ずっとそれを繰り返しやっていました。しかし、最弱の大名の一人、大宝寺義氏を選び最難関モードで全国統一したときにやり尽くしたと感じました。

この経験から得た洞察は「ひまはつまらない」ということです。社会に出て仕事で忙しいときには「ちょっとぐらい休みが欲しいな」と思うこともありますが、ひきこもりをしたおかげで「休みに解はない」ということが分かり、退路を断つことができています。またアーリーリタイア願望もありません。身体が動く限り動かしたいと思います。

世界一のドラマーを目指すも才能のなさに気づく

学校はつまらない、家にいてもつまらない、さてどうするか。当時は切実にモテたかったので、「ミュージシャンになればモテるだろう」と考え、中学生のときから片手間でしていたドラムを本格的にやることにしました。そのような低い志で始めたにも関わらず、なぜか目標は世界一のドラマー。無謀すぎます。

腕を磨くため、ジャズドラマーの河瀬勝彦氏が主催するカワセドラムスクールに入りました。河瀬先生にドラムが上達するコツを訊こうと「僕は何をやればいいですか?」と尋ねると決まって、「高校・大学に行って公務員になり、ドラムは趣味にしろ」と進路に関する回答で返されました。河瀬先生はその数年後にお亡くなりになるのですが、孫ほど年の離れたアホな私の人生を心配してくださいました。

カワセドラムスクール内では河瀬先生だけでなく、二人の良い先輩に巡り合うことができました。そのうちの一人、Mさんは元々プロドラマーでしたが家業を継ぐために引退し、当時は趣味でスクールに通っていました。Mさんからは合理的なドラムの叩き方を教わりました。よく遊びにも連れて行ってくれて、あるときは車で飛田新地を見学させてくれたりしました(笑)。

もう一人のBさんは私の二歳上の高校生でしたが、高校卒業後にプロになり今では頻繁に「ドラムマガジン」という専門誌の表紙を飾るなど第一線で活躍されています。Bさんからは「私には音楽の才能がない」という事実を実力でもって教わりました。Dream Theaterの「Metropolis Part 2」という変拍子、ポリリズム満載の曲があります。私はこれを四苦八苦しながら練習していたのですが、Bさんは一度聴いただけで叩きこなしてがく然としました。

二人とは合宿で練習をしたり、ストリートライブをご一緒したりとありがたい付き合いをさせていただきました。しかしながら、才能のない私には世界一のドラマーを目指すのは無理だと分かったので方針を転換することにしました。

「大槻ケンヂ」を目指してバンドをする

次に私が目標としたのは、またもや唐突ですが「大槻ケンヂ」さんです。まずはバンドで売れて、そのうち文筆活動やタレント活動にも展開していく、そんなイメージを漠然と持っていました。

そこでまずはバンド活動だ!ということで、ウェブサイトでドラムを募集しているバンドを探し、「NAPSAX」というスカロックバンドに加入することになりました。メンバーの平均年齢は20代中盤で、17歳の私は最年少です。私の加入直前に地元大阪のレコード会社からCDをリリースしており、リリース記念のツアーからの参加となりました。

当時の私は社交経験がほぼゼロだったため、大御所ミュージシャンに対して「この業界長いの?」と上から目線で話しかけるなど、態度がメチャクチャでした。またファッションのダサさが究極的でした。20歳になったときに人生で初めてGパンを履きまして、「ついに俺はGパンを履いた!」と感動したのですが、それまでは家にあるものをただ身につけていたので何を着ていたかすら覚えていません。UFOキャッチャーでとったサルのぬいぐるみをお尻からぶら下げることに何の疑問もいだかない不思議ちゃんでした。

行動も言動も意味不明すぎて周りには迷惑をかけたと思いますが、心の広い先輩方には面白がっていただきました。ツアー開幕の地、札幌では東京のスカコアバンド「DALLAX」と対バンしたのですが、トロンボーンのGENさんに打ち上げで失礼なことを言いまくって雪の中に何度も投げ込まれながら、最終的にはメンバーの皆さんと仲良くなることができました。

こうした懐の広い方に荒々しくも温かい指導をいただくことで、徐々に社会理解を深めていきました。

インディーズブームの中心地で「ビジネス」の面白さに出会う

当時はインディーズバンドのブームで、「175R」や「SHAKALABBITS」が売れていた頃です。彼らが所属していた東京の「Limited Records」に前述のCDを送ったところお声がかかり、NAPSAXも同社と専属契約することになりました。Limited Recordsはインディーズながらメジャーレベルの流通力があり、また「STYLE Of Limited」というテレビ番組まで持っていました。

今と違い当時の音楽業界はCDでの売上がメインでした。バンド活動はまず曲を作り、レコーディングします。それからプロモーションビデオを作ってリリースします。リリース後は、お客さんへの宣伝とCDショップへの営業を兼ねてツアーを回ります。宣伝という意味ではメディアに出るのも重要です。

このような一連の活動に関わる中で、音楽そのものよりも、音楽ビジネスの運営面に興味が出てきました。当時、リミテッドレコードには私たちのバンドに対してA&R(マネージャ)が二名ついていましたが、バンド内では私が主に渉外的な役割を担うようになってきました。

私が音楽を辞める前の最後のツアーでは、CDのリリースタイミングが近かった爆音SKA管弦楽団「マイアミバズーカーヘッド」に提案してカップリングツアーにしました。千葉でのライブ終わりだったと思いますが、ライブハウスでのミーティングを終えて外に出たら、マイアミのメンバーが全裸で鬼ごっこをしていました。なんで全裸なのかを尋ねると「全裸に意味なんてねーんだよ!」と怒られました。最高にロックな人たちでした。

オカッチという音楽イベンターとは音楽業界で一番仲良くなり、当時は毎日のように電話で長時間話していました。本業はエリートサラリーマンのオカッチが、貧乏を極めたような私をみて「いつも楽しそうで羨ましい」と言っていたのが印象に残っています。その後、数年間は会わない時期がありましたが、ある日、彼がとある悩みを検索したらひっかかったブログがあり、共感したので誰がかいているのかをみたら、たまたま私だった、ということもあったそうで久々に会って盛り上がりました。

当時は本当にお金がなかったので、前の住人が部屋で死んだワケ有り物件に住んでいました。それでもバンドの印税だけでは食えなかったので、飲食店やコンビニなど一般的なアルバイトをしていましたが、やがてドラムを教えたりジャズバーで演奏する仕事が徐々に増えていきました。

おじさんギタリストに出会って音楽の道を諦める

さて、肝心の「バンドで売れて、大槻ケンヂになる」という目標はどうなったか。残念ながらバンドはそれほど売れませんでした。

それでも大槻ケンヂになろうとしてエッヂの効いたブログを書いていました。あるとき、女性やクスリ関係で黒い噂のあるバンドと対バンすることになりました。怖いし目をつけられたら嫌だなぁと思いながら、そのバンドのライブをフロアで見ていたときのこと。そのバンドのボーカルがMCで「NAPSAXのドラムのブログを読んだことある?」と言い始めました。うわー、目をつけられた!殺されるかも!とドキドキしていると「昨晩読んでみたら面白すぎて、気づいたら朝になっていた」と褒めていただきました(笑)。

どんな内容だったか?言える範囲のネタをご紹介します。私はミュージシャンになったにも関わらず、全くモテませんでした。テレビに出ているのに童貞。18歳の誕生日を迎えたとき、こう思いました。「僕は女性と付き合ったことがないばかりか、満足に会話すらできていない。この先もそれは変わらないだろうし、そのなったら風俗に行くしかないけど、僕のような人間はそこでも断られるだろう。だとしたら生きる意味がないから自殺した方がいい」と。そういったダークな内面をブログに綴っており、爽やかなメッセージのバンドだったのでファンには不評だったと思いますが、妙なところに刺さっていたようです。

そんなある日、音楽をやめるきっかけが訪れます。知り合いに紹介された、40歳のおじさんギタリストの家にお邪魔しました。そのおじさんはギターで稼ぐわずかなお金で、ボロボロのアパートにひとり暮らししていました。そうきくと惨めな感じがしますが、そのおじさんはめちゃめちゃ楽しそうでした。ギターが大好きで、寝ても覚めてもギターをベロベロ弾いて脳内麻薬が出っぱなし。私はそのおじさんをみて衝撃を受け、自分には無理だ、音楽から足を洗おう、と決意しました。音楽をしている以上、おじさんのような生活になる可能性は十分にありますが、そうなったときにおじさんほどその生活を楽しむことができる自信がありませんでした。

結局、私はカワセドラムスクールのおかげで世界一のドラマーになることを諦めることができて、おじさんギタリストのおかげで音楽で生きることを諦めることができた、ということになります。

バンドを脱退し、音楽関係の仕事をすべてたたんだのは19歳のときです。一般的にはその手の夢をあきらめ始めるのは25歳で、30歳になるとほとんどが辞めるのですが、それよりも随分早く辞めました。

ちなみに音楽活動の経験から得たのは、何よりも「どこでも眠る力」です。ずっとツアーをしながらバンドカーで寝たりしていたので、眠気さえあれば岩の上でも眠ることができるようになりました。

あとは音楽に限りませんが、この前もこの先も私は自分の頭で考えて意思決定をしてきました。自分の頭で考えると無駄は多いのですが、自分が何をしたくて何をしたくないかの判断材料をたくさん持つことができます。今の知識をもって当時に戻れるなら同じことはしませんが、当時はそれしか選べませんでした。ひきこもっていた日々にも音楽をしていた日々にも後悔は全くありません。

一浪して早稲田大学に合格する

バンド活動でも、音楽そのものよりも音楽ビジネスの運営に興味を持った私です。音楽を辞めたら純粋なビジネスをやろうと思いました。

すぐに就職するという選択肢もあったのですが、私には「大学コンプレックス」がありました。「大学がどういう場所なのかを知りたい」というものです。こちとら中学校までしかまともに通ってませんから、「キャンパス」とか「ゼミ」とか言われても、何のことやら分かりません。皆が知る大学というものを知らないままだと後悔になりそうです。そこで実家に帰り両親にお願いしに行きました。両親はもとより私が進学してまっとうな社会人になることを望んでいたので、快く学費の提供を了承してくれました。

中学生のときは成績が良く、高校は地元の最難関校に入学しました。しかし、その後4年間は全く勉強をしていません。また周りに大学を出た人がほとんどおらず、受験のシステムを理解していませんでしたし、大学名も東大ぐらいしか知りませんでした。

受験のことがチンプンカンプンだったので、代々木ゼミナールに入ることにしました。事前に大学生の友人に「どこの大学がいいと思う?」と訊いたところ、「早稲田大学。文学部キャンパスは冬でも全員ミニスカだ」と言われました。そこで代ゼミのスタッフの方に「早稲田大学の文学部を目指しているので、早稲田のクラスに入れてください」とお願いすると、「残念ですが実力的に厳しいと思います」と一蹴されました。なにくそと思い全国模試を受けると、現国だけですが全国唯一の100点を採ることができました。その後は一度もそんな成績をとれなかったのでまぐれだったのですが、この結果をみたスタッフの方が私を天才だと勘違いし、早稲田に行く用のルートを用意してくださいました。

あとは一年間、ときたまバイトをしながら粛々と勉強をする毎日です。人と喋ることがほとんどなくて寂しかったので、近所のたこ焼き屋に毎日通って100円のたこせんを食べながらおばちゃんと会話していました。のちにおばちゃんは三宮でスナックのママになるという華麗な転身を遂げたので、社会人になってから無料で同伴出勤をさせて貰いました。

そんなこんなもありながら、早稲田大学の第一文学部に合格することができました。

一年間でゼロから早稲田大学に合格できた理由ですが、一番は「大学受験に必要な勉強量は大したものではない」ということだと思います。とある講師が言っていました、「古文単語300個。明日までに覚えないと死ぬ、と言われれば誰でも覚えられる。大学受験なんてそんなレベルです」。まさにその通りだと思います。

あとは私が活字中毒だったこともあげられます。本をたくさん読んでいたので国語は得意ですし、とりわけ歴史小説が好きだったので歴史もいける。残る受験科目は英語だけでしたが、これもおそらく国語と通じる部分があるのではないかと思います。

大学生活では水商売、統計、バックパッカー

大学4年間を通して、水商売をしていました。オーセンティックバーのバーテンダーからはじまり、シティホテルやラウンジでウエイターをし、最後は友人のオカマちゃんが銀座にお店を出したのでそこで黒服をしていました。 いまこうして書いていて気付きましたが、始めに正統派を学んでから徐々に砕けていく、というのは音楽のときと同じ傾向です。

自他ともに心配していた学業面では、意外なほど真面目に学ぶことができまして、勉強が大変なことで知られる心理学専修に入り、中でも勉強が大変な統計学のゼミに入りました。ゼミではRを使った多変量解析を学びました。卒論は心理学とは関係がなくても良く、不動産情報好きということもあって決定木やニューラルネットワークで物件の賃料予測をしました。数学やプログラミングの面では元から経験のあった同級生には敵わず、彼らに勝てるものが何かを考えさせられました。

あとはバックパック旅行にもハマりまして、初めての海外であるインドではデリーで派手に詐欺師にカモられました。次に行ったタイではバンコクで睡眠薬強盗に遭い所持金がゼロになりましたが、身動きできず道路に転がっている私を介抱した娼婦がしばらく家で養ってくれました。ボリビアのラパスでは五人組の強盗に襲われ、首を締められて意識と所持品を失いました。私は状況がヤバくなればなるほどワクワクしてしまうようです。首絞め強盗のときはアルゼンチン、チリときてボリビアに到着したその日でしたが、強盗に遭った瞬間に「ようやく旅が始まった!」と思いました(笑)。

その後の生き方に影響を与えてくれた二人

この頃、私の生き方に影響を与えてくれた、最高に格好いい二人の人物と出会います。

一人目はアグレッシブな生き様をみせてくれました。前述のオカマちゃんの関係で知り合ったゲイの方ですが、遊びまくってAIDSになって、出会ったときには末期だったので血を吐きながらお酒を飲んでいました。マンションの4Fから飛び降りた話とか、包丁で切腹した話とか、めちゃくちゃなエピソードで笑いをとりまくっていました。最期は病気とは全然関係ない事故死で、どないやねーん!とツッコミましたが、とにかくロックな人でした。

二人目は背筋のピンと張った生き様をみせてくれました。彼女は銀座のお店で出前をお願いしていた家庭料理屋のおかみさんで、老齢にも関わらずシャンとしていました。付き合いのあるホステスさんのバースデーパーティには一人でお店にいき、マーテルコルドンブルー(ブランデー)を入れて、綺麗に飲み干していました。

あるときから、私は背後に二人の視線を感じるようにしました。周囲に誰もいないときでも二人からみられて恥ずかしくない行為か、ということを常に意識するようにしています。なかなか二人のような爽やかな生き方をするのは難しいですが。

VOYAGE GROUPのインターンでインターネットに出会う

大学三年次の夏に、株式会社VOYAGE GROUP(当時は株式会社ECナビ)のインターンシップに参加しました。当初はインターンシップで支払われる報酬目的で、インターネットには何の関心もありませんでした。元々アナログ人間でケータイ電話を持つのも周囲で一番遅かったですし、大学生になってもPCを持っていなかったぐらいです。

そのインターンシップは学生が新規事業を企画する趣旨でしたが、私のようなITリテラシーが底辺の学生がおりましたので、まずは社員の方がインターネットビジネスの仕組みをレクチャーしてくださいました。そしてそこで聞いた「『Yahoo!』の検索結果の右側は広告である」という衝撃的な事実に私はノックアウトされました。後に入社することになる株式会社カカクコムの「価格.com」についても説明があり、なんとこれは東証一部の会社がビジネスとしてやっているとのこと。私はてっきり誰か物好きが趣味でやっているウェブサイトだと思っていました(笑)。がぜんインターネットに興味が湧いてきました。

このインターンシップでは同じグループの大学生と私のウマが合わず終始喧嘩をし続け、与えられた7日間のうちちゃんと事業に関する議論ができたのは最後の半日間ぐらいでした。結局、私たちのグループの事業案の評価は最下位でした。しかしその後の半年間、VOYAGE GROUPでアルバイトさせて貰えることになりました。

アレグロワークスで見習いエンジニアをする

私が配属されたのは子会社の今はなき株式会社アレグロワークスです。モバイルに特化したサービス比較サイトの運営をしていました。私はエンジニアの見習いとして、HTML、CSS、PHPを覚えながらウェブサイトを作りました。結局、エンジニアは私にはあまり向いていないな、と思ったのですがそれでもここでインターネットの基本原理を理解したことはその後の仕事に役立っています。

またここではその後の就活を左右する洞察を得ることができました。それは「上手くビジネスとそうでないビジネスがある。そうでないビジネスは優秀な人ですらどうしようもない。ましてや優秀でない自分には何もできない」ということです。アレグロワークスの社員は優秀な方ばかりでした。それにも関わらず、アレグロワークスの事業は上手くいきませんでした。これはあと付けですがビジネスの選定が間違っていたからだと思います。

しかし、優秀な人が難易度の高い課題に一所懸命取り組むインターネットビジネスは面白いと思いました。また業界独自のゆるさも好きになりました。仕事というのは険しい顔をしながら真面目に取り組むイメージでしたが、VOYAGE GROUPはフランクで笑顔が多い会社でした。少し音楽業界に似ているかも知れません。

カカクコムへの入社を決める

その後、面接では受かったり落ちたりしまして、最終的に内定がいくつかありました。どれも好ましい会社で、甲乙つけがたく感じます。

アレグロワークスの経験から、上手くいくビジネスを見極める必要があると思いました。しかし、私にそのスキルはありません。そこで「時価総額」という概念を持ち出しました。これで投資家という賢い人たちが有望と認めた会社を割り出すことができます。

またVOYAGE GROUPの人事の方がおすすめしていた波頭亮さんの「就活の法則」という本では「相対エリート」という考え方を学びました。一番手の企業にビリの評価で入るより、二番手、三番手の企業にトップの評価で入る方がいい仕事に恵まれて成長できる、というものです。ただし、企業からの評価自体は私にとって知り得ないものですから、知り得る類似の指標を探しました。目をつけたのが学生の競合状況の厳しさを表すであろう「リクナビのエントリー数」です。

私は「時価総額をリクナビのエントリー数で割る」独自の指標を作り、その数値が高ければ高いほど活躍しやすいであろうという見立ての元、内定を貰った先を比較しました。そこで抜きん出いてたのがカカクコムです。カカクコムは当時、学生人気は高くないものの、投資家からは高い評価を得ている会社だったのです。私は自分と同じ学生の目よりも投資家の目を信じ、カカクコムへの入社を決めました。

ゆるいはてなで伸び伸び働く

カカクコムの内定者に株式会社はてなのアルバイターの佐藤君がおり、彼が「フィットしそうだから」と紹介してくれたことで、大学四年次にははてなの東京オフィスでアルバイトをすることになりました。私の仕事はカスタマーサポートでした。

はてなはVOYAGE GROUPよりもさらにゆるかったです。ゆるい会社では我の強い人間が伸び伸びやることができる一方、他人に依存したい人間は依存先を見つけられずにふらふらと漂ってしまいます。自分でいうのも何ですが、私は社風にフィットしていたと思います。最近「はてなに転職するか迷っている」という知人がいたのですが他社であれば我が強すぎてぶつかりそうな彼女もはてなだったら活かしてくれるだろうと思い後押ししました。

仕事面ではカスタマーサポートはオペレーションの塊で、私のようなそそっかしい人間はよくミスをしてしまうのですが、「すいません、次から気をつけます」というと「意思ではなく仕組みでカバーしよう」と指導されまして、その教えは今に活かしています。

カカクコムに入社し営業になる

大学を卒業しまして、新卒社員としてカカクコムに入社しました。配属は志望が叶い広告営業の部署です。

なぜ私が営業を志望したか。それはこれまでの人生を振り返り、自分はスペシャリストではなくゼネラリストだと考えたからです。とりわけバンドの渉外担当の経験から、営業がもっとも価値を提供しやすいのではないかと見立てました。事実、営業としてはそこそこ上手くいき、ある時期には部署で一番の達成率になったりもしました。

しかし広告営業というのは四半期ごとの予算を追うことの繰り返しで、繰り返すごとにマンネリズムに陥っていきました。そこで新しいことにチャレンジしようとして自らの役割を超えた仕事を勝手にやろうとしたのですが、これは止められてしまいました。

今考えれば、これは会社が悪いわけではなく私の仕事の進め方が間違っていました。役割を超えた仕事をする際に必要な「社内調整」とか「社内営業」という概念が抜けていたのです。当時は自分が何を欲しているかを言語化できておらず、それをどうすれば手に入れることができるかも分かっていませんでした。

課される予算は達成しつつも、段々と情熱が持てなくなってきました。そして新卒二年目からは、空アポを入れてシティホテルでシガーを吸うなど、ダメ社員になっていました。

ベンチャーの魅力に撃ち抜かれる

そんなある日、大学の先輩が経営するベンチャーから「一緒に働かないか?」とお声がかかりました。当時、私は正体不明の問題を抱えていたとはいえ、カカクコムという会社の真面目で本質的なことをコツコツ積み上げる社風は好きで、転職は全く考えていませんでした。

しかしながら、せっかくお声がけいただいたので断るにしてもきちんと知った上で断りたいと思い、有給休暇をとって先輩の一日に付きそうことにしました。営業同行をしながらその運営サービスの売り込みを聞いていると、矛盾があることに気づきました。そのサービスの強みは小さい規模でしか成り立たず、サービスが流行って大きくなったらなくなってしまう類の強みでした。つまりそのサービスは論理的に言って拡大ができないのです。

そこで一日の終りに私はこう言いました「ビジネスモデルが破綻してますね」。それに対する彼の返しが私の転職を決めました。「その通り。だから新しいビジネスを立ち上げて欲しい」。ベンチャーってなんてダメなんだ、でもダメだからこそやれることがたくさんありそうだ、と思ったのです。

翌日、私は上司に辞意を伝え、引き継ぎをしながら次の仕事を探し始めました。結局、カカクコムで勤めたのは二年半でした。周りは入社時から私のことを飽きっぽくてすぐに辞めそうな人間だと看破していたようですが、私自身はそんな自覚はなく、ずっとカカクコムで勤め上げてゆくゆくは社長になりたいと思っていました。認識が甘かったとはいえ、一度は人生を捧げるつもりになれたのは新卒ならではで、カカクコムには今も親のような感情を持っています。

ちなみに次の会社に行ってからも、カカクコムの人たちには色々お世話になっており、とあるサービスの立ち上げに至ってはほぼカカクコムのノウハウでやったといっても過言ではありません。OBとして輝くことで恩返ししたいと思っています。

キャピタリストの紹介で弁護士ドットコムにいく

カカクコムでの私の役割は、上手くいっているサービスのオペレーションでした。しかしながら、ベンチャーに行きますとアレグロワークスのような新規のチャレンジ要素を多分に含みます。営業経験を積んだとはいえ、まだそこまでの自信はありません。前述の大学の先輩のベンチャーでも、私が立て直せるかというと無理だったと思います。ちなみに先輩はその後、事業を自らピボットし成功をおさめています。

次はどうやって会社を選ぶか。カカクコムのときと違い、相手は非上場ですので時価総額ではかるわけにはいきません。今度はベンチャーについて詳しいであろう起業家やVCに、どこの会社がいいかを聞いて回ることにしました。

そして最終的には元カカクコムで当時DGインキュベーションにいた石丸文彦さんというキャピタリストからオススメしていただいた弁護士ドットコム株式会社にいくことに決めました。

それからのことは以下にかいています。長文を読んでいただいてありがとうございました。

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