3.青年であること、青年でなくなっていくということ

これは「再起する青年 Advent Calendar」3日目の記事である。

私は2017年現在、25歳だ。世間では「アラサー」と呼ばれ始める年齢、30代の人には「まだまだ若いよ」と言われる年齢。そして、ここ数年は「青年」である。

このアドベントカレンダーを始めたのも、自分が「再起する青年」と呼ばれていたことがきっかけだった。(再起については2日目の記事に書いた)自分はまさに今「青年期」の真っ只中にいる人間なのだろう。「青年期」にそもそも規定された年区分はないだろう。「青年」である時期が「青年期」なのである。では「青年」とはなにか。なぜ青年は青年と呼ばれるのか。

wikipedia によると、

青年(せいねん)は、人の成長過程における一時期。広く社会の中で自立を獲得していく時期をいう[1]。「青年」は男性・女性ともに対して使用される。

~ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/青年 より

社会での自立を獲得していく時期。社会的自立とは、経済、または生活における自立のことを指すのだろう。だけど、それだけでは何かが違う気がする。この解釈では、社会の文脈に大きく絡め取られすぎる。もし大失業時代が来て、誰もが経済的自立を出来なくなってしまったら?アナキストはどうなるのか?…大雑把すぎてよくわからなくなってきた。何よりも「再起する青年」というタームの中での「青年」をこの「社会的自立」の解釈に崩してしまうのはあまりにもつまらない。

キルケゴールは

青年は希望への幻影を持ち、老人は想起への幻影を持つ。

と言った。(『死に至る病』より)

キルケゴールはおおむね悲観的であるから、「幻影」と言っているが、青年から老人に変わるなかでその対象が「希望」から「想起」に移りゆく、と読み取れる。

青年である自分は、確かになんらかの希望を持っている。人を助けて、誠実であり続けて、できたら一分野で名前を残して…

確かに青年は希望をつかみたがる生き物だと思われているのだろう。自分にもそう見える。ただ少なくとも私はその希望について確固たる信頼をおけてはいない。

叶えられた希望に安寧すること、「想起してしまうこと」への強い反抗心を持っている。希望、つまり欲望の1つを信仰してしまうことそのものが、知的誠実さを欠如してしまうことに他ならないように見えるからである。個人的なパラノイア的性質により、知的に誠実であることへの執着を強く持っている。これは「青年でなくなることへのおそれ」なのかもそれない。

希望を持つことと、希望そのものに疑念を持ち続けようとすること。この2つの共存しにくい観念によって、心的な乖離が起こっている。ヒステリックな混沌の中で、救われるべきか?決して救われてなんかやらないか?そんなことを悩み続けている。

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