The Negro Page” by Aelbert Cuyp (1620–1691)

最近、私が見聞きする(周囲の人たちがやっている)ことは、

  1. 「先端事例」というよりは「逸脱事例」
  2. 「価値の交換」というよりは「共同体への参加」
  3. 「ニーズ調査」を超えた「文化のデザイン」が行われている

ではないか、と感じている。

事例研究(Case Study)の手法について理解を深めようと読んだ「ブラックスワンの経営学(著・井上達彦)」において、「リサーチ・デザイン(著・田村正紀)」からの引用として、4つの事例分類について紹介されていた。

1)先端事例
当初は「ありえない」と思われるものの、普及すると「ふつう」になる事例。例として流通業におけるAmazonやeBayなど。

2)代表事例
ある関心事についての中庸的存在、もしくはそのことがらを代表する目立った存在。例として、ディスカウントストアにおけるウォルマート(会員制ディスカウントストアに限って言えばコストコ)。

3)逸脱事例
ほかの大多数と異なり、通説に適合しない事例。「既存の理論」や「業界の常識」の限界を明らかにし、理論の突破口や業界イノベーションの着想を得ることができる。将来においても大きなカテゴリーの代表モデルではなく、「ありえない」存在であり続ける。例として、アメリカの流通業において大部分をオリジナル商品で品揃えするトレーダージョーズ、健康ブームを作ったホールフーズなど。

4)原型事例
ある関心事を生み出した最初の事例。起源を調べることで、その関心事の本質などについて理解できる。欧米の百貨店の原型例はボン・マルシェ(フランス)、メイシーズ(アメリカ)など。

思い起こすと、2011年より活動してきた北インド地方のエスニック料理・ビリヤニを日本に普及する「日本ビリヤニ協会」、2015年より人材育成ファシリテーターを努めている大学生向け新興国ビジネスインターンシップの「海外ビジネス武者修行プログラム」、議論を知的エンターテイメントとして楽しむ人たちが集まるコミュニティ「議論メシ」といった活動は、先端事例というよりもむしろ逸脱事例なのではないか、と思わされる。

私が大学院に入学した理由の1つに、見聞きしたことについて可能な限り客観性を高めて世の中に発信するために、アカデミックな研究手法を習得したい、という動機があった。入学当初は、経営学の中で主流とされる統計学的視点で実施する仮説検証型の研究(量的研究)を身につけようと考えていた。だが最近の自身の関心はケーススタディ(質的研究)へと移っている。観察者としてだけではなく、執行者として自らがビジネス実務の現場に入ってゆける「二刀流」であることを活かすなら、アカデミックの世界を中心に生きている研究者たちとは違ったアプローチをとることが、より良い成果を出すことにつながると考えるからだ。

私が探求活動においてなすべきことは、「ユニークで持続可能な事業・人を創造する」というU360のコンセプトを継続的に体現するための原理原則を探しだすとともに、私と関わりある事業のユニークネス・サステナビリティの向上に貢献することである。


Quadrants of Integral Framework(Integral+Life

2019年は「統合された人生の実践(Integral Life Practice)」をテーマに日々を過ごしたいと思います。

アカデミックと実践、精神と肉体、大学と仕事、ヨガとランニングと筋トレ、人材育成プログラムにおける成長度と満足度、個性尊重とチーム協調、考えることと行動すること(認識と行為)、、、

私の周囲には、対立(それは概念的なものであったり、物理的な時間の使い途であったり)している事柄が無数にあります。まずはそれらに意識的になること、気づけなかったこと、感じられなかったことを感ずること。次に細分化(バラす)して個々に対処するのみならず、いかに統合的に扱うか、アウフヘーベン(止揚)するか、といったことを追求します。

Ken Wilberのインテグラル理論に出会ったのはたしか2013年頃に、マーケティングワークショップ研究会(ヤスハラさんの主宰していた勉強会)のゲストに、カリフォルニア大学統合心理学研究所で博士号を取得された鈴木規夫さんがいらっしゃったとき、と記憶している。知ること、理解すること、実践すること、にはだいぶ違いがありますが、私の視座を拡げ、その後の出会いや学び、生き方に少なからず影響を受けた。Wilberは”Integral Life Practice”といった実践手引書を執筆しており、「聞きかじったこと」から理解をあらためて、もう少し推し進めてみたい。

2019年の試みとして、体験したこと、考えたこと、感じたことなどをブログの記事として書き起こすのを続けようと思う。人生の転機は無数に存在する中で、2009年に会社退職・独立から知人との共同起業、2014年の自身の会社設立、2016年の京都移住と、この2年間での家族との別れなど。その時々で記録できれば、もっと生々しい感情があったのでしょうが、今思い立つのも何かの巡り合わせなのでしょう。大学生の頃から社会人3年目ぐらいまでは一定頻度でブログを継続してましたが、この10年ぐらい「読まれるのに恥ずかしくない文章を書きたい」といった虚栄心が強くなって続かず、「思いつきを、非構成的に発信する」ことが許されるtwitterへと逃げていました。インテグラル理論の紹介もまた日をあらためて。


京都に住み始めてちょうど1年の日に、お灸を据えてもらった。鍼灸院でお灸先生に診てもらったという話です(笑)。お灸先生というのは、先生が監修を担当しているお灸漫画の中での呼び名です。個人の価値観の多様化に合わせ、日本の漫画も細分化・多様化が進みましたが、現代はお灸が漫画になってしまうご時世なのです。

先生の、お灸を据える際にも陰と陽がある、という話がとても面白かったです。いきなり結論から言ってしまうと、

”陰”にあたる体の下半身や内側(内臓)は、体の毒素を排出したりする器官などが集まっている

”陽”にあたる上半身や外側(体表)は、エネルギーを取り入れる器官が集まっている

”陰”にあたる下半身(足裏からふくらはぎ、太もも、鼠径部、臀部など)が冷えると、血や水分の循環が悪くなり、寝ても食べても疲れがとれにくい体になってしまう

このため、下半身を温めることが大事

といったお話でした。東京に住んでいた頃は、整体師さんに定期的にメンテナンスをしてもらっていましたが、京都でもやっと安心して相談できる方が見つかった気がしています。お灸を据えてもらった効果なのか、そうした安心感からか、ぐっすりと眠れました。これからはズボンの下にヒートテックを履き、外出時には足裏にホッカイロを貼り、就寝前には半身浴をするなど、冷え対策をしっかりやろう。

1年ほど前に、オランダで知性発達科学の探求に勤しむ加藤さんも、光と影の話をしていたことがとても印象に残っている。学術理論をはじめ、世の中に存在するいわゆるフレームワークには、各々にそれ固有の「価値」があり、物事を考えたり計画したりする枠組みを提供してくれたり、とさまざまな場面で有用に働いてくれる。しかし「価値」を持つがゆえの、ある視点に立脚するがゆえの「限界」も同時にはらんでおり、いつなんどきも眼前の課題を解決してくれる魔法の杖のようなものは存在しないのだ、と。

たしかに世間的に知名度を得ていたり、いわゆる”成功者”と言われるような人たち、もしくは傍目には楽しそうに幸せそうに見える「輝いてる」人たちが、必ずしも幸福であるとはかぎらず、むしろ人知れず孤独に苛まれていたりする。自分自身に向き合いたいと願っても、それさえも周囲の環境が許さず資本主義社会、情報社会にあっという間に消費されていく。

何かを事を為そうと考えるとき、それが大きいものであればあるほど、夢や目標の表側にある”光”の部分だけではなく、光が強くなるのに合わせて大きくなっていく”影”の部分とどう向き合うか。肥大化する自己像・理想と、変わらない眼前の現実、矮小な自己とのギャップに振り回されることなく自らの歩みを1歩ずつ進めていくには、希望と諦観の双方を受け入れ、統合し、超越していけるのかが問われている気がしてならない。


PJ. M. W. Turner ”Rome from Monte Mario”(1818)

私たちは当たり前だと思っている。家に帰れば、温かく迎えてくれる家族がいること。五体満足な体があって、走り回れるということ。レストランに行けば、古今東西あらゆる料理が食べられること。地球には空気があって、息をできるということ。たまたま運良く天が与えてくれたものを手に、我が物顔で自由を謳歌しながら、動植物の命を犠牲にし、地球環境さえも破壊しながら生きている。

10年ぐらい前のスポーツ誌”Number”の1つの記事を思い出す。たしか、こんな内容だった。

「失ったものを数えるのではなく、得たものを数えていく人間になりたい(成田真由美さん、元パラリンピック水泳日本代表)」。

アトランタから北京までの4大会で15個の金メダルを獲得した成田真由美さんは、中学生の頃に横断性脊髄炎を発症し下半身麻痺となり、車いす生活を余儀なくされた。その後も心臓病、高血圧症等で20回以上も入退院を繰り返し、23歳の時には車の追突事故に巻き込まれて頸椎を損傷し、後遺症で左手が麻痺し、体温の調整機能も利かなくなる。しかし、そうした失うことの連続の人生だった彼女は、障害者スポーツとして水泳に取り組み、数多くの栄光をつかんだ。

失ったものを数えて絶望することなく、自分の人生をあきらめずただ前を向いて一歩、また一歩と地に足を着けて歩いていったんだと思う。他人への「感謝の心」をお題目にせず通奏低音、一貫して行動にこめて。

実現不可能な高い目標を立てて、かけ離れていることを嘆くよりも、いま足下にあるものを見渡し、得てきたものを1つずつ数えるような生き方を歩みたい。この頃、降りかかる様々な出来事の渦中にいる自分を俯瞰しながら眺め、あらためてそんなことを思った。


他人に投げかけている様々な”問い”や”励まし”は、相手に向かって伝えてるように見えて、自分自身に言い聞かせているような感覚がある。

「なぜどういった動機で、今ここにいるんだ?」

外発的なきっかけではなく「自分自身がどういう意義を見いだそうとしているか」を言葉に、自己表現できるように。作業・タスクをこなすことや、情報や知識を与える役割を果たすという”Doing”ではなく、自分自身の個性や存在、”Being”によってかかわる人たちの意識に働きかけ、自らを還元していきたい。

実力以上に背伸びしては、力不足で打ちのめされ、の繰り返しで、自分は何者にもなれずに終わるんじゃないかという不安はいつも背中合わせ。ただ、背伸びして、高いレベルの、難しい仕事にトライしなくなったら、心理的にできなくなったら本当に終わりだと、上手くいってるときよりも上手くいってないときの時間の過ごし方が大事だと、自分に言い聞かせている。他人のことが、才能も能力も環境も気力も体力も恵まれているように羨ましく見えてしまうこともある(それはきっと幻想で、多かれ少なかれの苦悩は誰しもあるだろうと思うが)。

こうした葛藤は成長につきもので、自分自身や他人と真摯に向き合おうとすればするほど、感じられる葛藤は大きくなるけれど、問題へ向き合い続けることに意味があってほしいなと思う。見かけによらず、もうすぐ34歳になる自分へ、いつまでも冒険者でいろよー、という励ましである。


ポール・シャバス 「九月の朝」 (1912)

今日の仕事は、やっていて自分が嫌になるほどに、集中力が続かず非効率な時間であった。職業人として経験を積むと、感情で面白みを感じられない事柄についても、やる意義だとか理性でもってして自身を制御できるようになるものだが、それは精神衛生上、良いことでもないし賞賛すべきことでもない。

ファシリテーターが、「チェックイン・チェックアウト」という手法で、その日をどういう意図で生きるのかを定めたり、振り返ったりを促すのは、人は忘れやすいという習性を持っているからだと思う。雑多なものが溢れる世界を、自分自身や志を見失わずに生きていくには、人という「器」が持つ「忘れる」という習性を自覚し、何度も問い続け、言い聞かせ、継続していくしかない。私は人生のバトンを、いろんな人たちから受け取ってきた。家族からは肉体的な命を、学生時代の恩師たちからは「自分の頭で考える」という根源的な思考を、働く中で出会った師匠たちからは支援者・実践者・研究者としてのあり方を。

自分自身の心の声に従っているだけではなく、受け取ったバトンを持って力の限り走って次の人にバトンを渡す役割を果たすことが、偶然の連続の中で自分だけが授かった使命のような気がしている。だから、私はコンサルタント・研究者として法人の事業開発やブランドマーケティングというテーマに、ファシリテーターとして若手人材の成長発達に、起業家としてビリヤニというエスニック料理を日本の文化にするというテーマに、向き合う。

その先に、何かいいことがあるだろう、といった見返りは期待しない。ただひとりの探求者として純粋に探し続けていきたい。既存の積み重ねの延長線上の予定調和とは違った、新しい地平が開けているのだと信じて。また冒険家が荒野でのたれ死にするように、まだ見ぬ地平を目指した探求の道の途上で死ねたら幸せだと思う。


就職活動を目の前にした大学生から「自分のやりたいことが何か、よくわかっていない」といった話をよく聞くが、それは大学生に限った話ではない。私は33歳になっても考え続け、悩んだりしている。

私は「やりたいこと」のアイデア出しをすると幸い、その候補はたくさん出てくる。仕事について言えば、現在の本業である「法人向けの事業開発コンサルティング」のほかに「若手人材育成のファシリテーター」「ビリヤニの日本国内への普及」、その他にも「法人向けの問題解決型セールス」「事業開発とブランドマーケティングについての研究者」、コンサルティング業界向け人材紹介、広報・PR領域でのサービス立ち上げ、シェアハウス・オフィスや飲食店の運営、海外食品の買い付けと国内流通、ASP販売代理店など。どれもやってやれないことはないが、これを自分がやって何になる、という思いもあるのが正直なところだ。

志を持って、社会問題の解決にコミットしている起業家や、若くして自分自身の人生ミッションが分かっているような人が羨ましい。ただ、彼らは何かなすべきことをやってそうなった、というよりも自分の人生を生きる中でたまたま偶然、出会うことができた、だけではないだろうか。人生のミッションに出会うのが20歳の人もいれば、50歳の人もいる。こうしたパーソナルな問題、家族や友人、恋人といった人間関係の問題は、「答えが出る・出ない」以上に「向き合い続ける」ことに価値があると思う。悩み抜いても答えが出ないとき、というのは「今は答えがいらないとき」であって「葛藤を抱えたままいけ!」ということなのだと。


ワシリー・カンディンスキー 「決定的なバラ色」 (1932)

日本海外を問わず、出張帰り翌日は予定を詰めずにゆるい時間を過ごすと決めている。心身の疲れをとる以上に、非日常から日常へと戻っていくための時間を持とう、という感覚だ。昨日は、午後に1件の顧客開発インタビューのほか、通販商品の発送対応、公共料金の支払い、自転車の安全メンテナンスなどを行うにとどめた。

多くの人は、その人の本質に関することに生ある時間を投じたいと思っていても、より多くの本質ではない雑多なことに費やさざるをえない環境に在る。私ももちろん、人生の本質に費やす時間を増やしたいと日々思っているが、その割合は体感覚としては5%:95%で非本質の時間が大半だと思う。そのため、そうした雑踏の中にあっても何のために生きているか、を見失わないことに意識を向けようとしている。

「人生を幸福にするためには、日常の些事を愛さねばならぬ」という芥川龍之介の言葉を10年前から知っていたが、この頃になってその意図が少し分かってきた気がする。ちなみに現在の私にとっての日常の些事、いわばルーティンは下記のようなものだ。

・朝起きたらコーヒーをセットし、1時間ほど思索にふけったり、読書や文章執筆を行う
・事務所のオープン時間(8:30もしくは10:00)に合わせて仕事にでかける
・大豆や魚・肉、葉物野菜を中心とした低糖質食
・昼食後15〜20分ほどの昼寝
・仕事終わり、就寝前にヨガ・瞑想・入浴などで心身を落ち着かせ、振り返りを記録し、入眠準備を行う
・週1回(主に火曜日)、ゴミ出し登板の日に合わせて居室の清掃整頓・リネン交換を行う

それぞれ意図をもって行っていることだが、重要なのは何をやるか(Doing)ではなく、自身のあり方(Being)にフィットするようなルーティンを見つけること、心おだやかに懇々と繰り返していくことなのだろうと思う。


Foliage Nature Trees Outside Germany Woods

3年前から、日本の大学生向けの海外インターンシップのビジネスファシリテーターの任についている。自分自身や他人との向き合い、異国の地でやったことのないビジネス立ち上げで成果を出すことを参加者に対して求めていくにあたり、私自身もあり方や、未知の領域へ挑戦していく姿勢を問われていると感じる。口先だけでみんなに頑張れと言ってるだけの人は、人の成長や発達を支援する人のあるべき姿ではない。私も新しい自分になりたいと、絶え間なく続く自己変革の日々に身を置く者こそが伝えられるものがあると思うのだ。

そんな朝は、出張中だからと2週間、中断していた朝ランとヨガ、筋トレを再開することから始めた。ルームメイトから、いつでも実施できる筋トレとして、スクワットの姿勢を1分間キープするのを繰り返す、というやり方を教わる。サッカーに打ち込んできた彼は、海外遠征選抜に選ばれるために、天候や道具の有無に左右されずにトレーニングを継続するために、このやり方を編み出したという。また、その甲斐もあって参加したスペインのプロサッカーの下部組織との交流リーグ(日本で言えばJ3やJFLに相当するレベル)では、パス回しやボールをトラップするといった基本動作1つ1つのレベルの高さに、取り組む意識についてあらためさせられたと。基本動作の継続鍛錬や基礎体力の強化なくして、卓越した世界には至ることはない。

この2,3日、自分自身をさらけ出そうとしては自分以外の何かを演じているような体感覚に陥り、必要以上に考え込んでしまっていた。精神的ストレスは、体力を消耗させる。野球でいえば、フォアボールをたくさん出す投手のようなものだ。スタミナを浪費すれば、力を出すべきときに踏ん張りきれない。生来、考えこんでしまう性格の私は、考え抜いた後に考えることを手放して、頭を空っぽにして無心で行動するようにするとうまくいくということを思い出す。すると、肩の力が抜けてリラックスができ、自然体で人と向き合えるような清々しい感覚があった。どんな逆境やピンチに置かても、自分が想定したシナリオ通りにすべて上手くいっていると思い込む。物事や対象のただ1点を凝視するだけじゃなく、全体を俯瞰して眺めるモードへと切り替えることも重要だ。

結局のところ、自分は自分以外の何者にもなれないし、自分以外の他人を羨ましがったり、意識しすぎると自分を見失う。他者の存在は成長発達にとって不可欠なのだが、自分の心の中を他者で満たしてしまうのではなく、自分自身のアップデートにつなげていかねばと思う。やり方でもやる気でもなく、自分自身が取り組むこと立ち向かっていくことの意味をどれだけわかっているか。最高の人間を目指すのではなく、最高の自分を目指して、自分で見つけた自分の道を、自分の足で歩いていきたい。


人が好きなことをやっていて羨ましく思うとき、というのは自分が好きなことを我慢して、好きじゃないことばかりをやっているとき、なのではないかと思う。
地に足がついた生き方をして、自分の道に夢中になっているときは、そんなことはないのだから。
そうした夢中になっているとき、というのが誰しも過去を振り返ったらきっとある。
ただ忘れているだけだから思い出せばいい、自分の人としてのあり方を。

そんなことをふと思ったので、あらためて個人として職業人としてのBeing(あり方)について思いを巡らせた。
私には大きく「研究者」「支援者」「実践者」の3つのアイデンティティがあって、それらを行き来したり、重ね合わせたりしながら、自分自身の道を歩もうとしているように思う。

◤研究者としての自分◢
私個人のアイデンティティの最も大きな部分を占めている。
生き方の根底にあるのは「考える人」であって、未だ明らかにになっていない真実を解き明かし、多くの人がより良く生きられるようになったり、自らが真理に到達したいと思っている。

◤支援者としての自分◢
これは私の職業人としてのアイデンティティの大きな部分を占めている。職業上のキャリア(コンサルタント、PRエージェンシー、フリーランス)から形成された、「必要とされ、それに応える」というあり方は私個人と社会をつなぐ重要な靱帯となっている。

◤実践者としての自分◢
研究者・支援者という客観の世界だけで生きるではなく、現場の当事者としての喜怒哀楽や、理論・概念の実践者として身体を通して体得・体現したいと思っている自分もいる。
経営や成長・発達についての心理、場づくり、東洋思想やヨガなど、教義を知るにとどまらず修練の先にあるものに関心がある。

職業人としての世の中との関わりは、株式会社U360(前身:マーケティングオフィス健)の事業内容やコンセプト、企業理念などにまとめた。
ユニークな事業・人づくりを実践者・支援者として行う。

Kengo Miki

京都在住の事業化コンサルタント。京都大学デザイン学大学院にて個人と組織事業創造能力の獲得や、差積化(Differentiation)などについて探求。日本ビリヤニ協会関西支部長。

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