ネット評判社会

Kenzo Nagahisa(永久健三)
12 min readApr 8, 2018

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0.はじめに

このBLOGの3記事目として、読んだばかりで消化不良中の「ネット評判社会」について書こうと思う。偶然知ったちょっと古めの本で、先週勤務先近くの図書館で借りて読んで、もう一回読もうかどうか悩んでいるところだ。

ネット評判社会 (NTT出版ライブラリーレゾナント057) 単行本(ソフトカバー) — 2009/10/7 山岸 俊男 (著), 吉開 範章 (著)

1.きっかけはブロックチェーン

(1)今更ながらSmart Contract関連の勉強を開始

暗号通貨の投資や投機に興味はないけどこんな記事はすごーく気になる😀ESP32を使ってEthereumのSmart Contractを操作する
でもEthereumの前にちゃんとBitCoin/BlockChainとかの勉強せんとなー、今更感満載で気がすすまんなーと思いながら、ぼちぼち元論文読んだり、ググったりしてて、こんなネット記事で「ネット評判社会」を知る。

ブロックチェーンの「トラストレス」とは何か?

ほ、ほぉ〜。ちょっとの引用だけだけど面白そうだぞぉ〜。

我ながらSmart Contractの勉強をしようと思って社会科学の本を読むってのは本末転倒のような気もするが、結局は僕にとってはMakerも白川文字学もSmart Contractもこの本も全部同じ。面白い!

2.個人の感想です

(1)グッと来た第1章「安心社会と信頼社会」、第2章「歴史からの教訓」

第1章はこの本のベースとなった山岸俊男さん(共著者の一人)のサマリの章みたいだ。

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム ハードカバー — 1998/5/15
山岸 俊男 (著)
こっちの本もちょっと興味あるけど、まず「ネット評判社会」を読み終わらねば💦

で、冒頭の一節。

p25

「日本でのビジネスは、細かいことまでいちいち契約書に書き込むことはしないで電話一本で話がすむといったかたちで信頼関係に基づいて行われており、信頼関係を作るまでは時間がかかるが、いったん信頼関係が確立すればすべてが 信頼にもとづいてスムーズに進めることができる。といった逸話ないし神話が代表しているのは、日本社会は信頼社会でであるという思い込みにすぎない。日本が信頼社会だと思われているのは、実は日本社会には集団主義的秩序が針千本マシン(*)として働くことで安心が提供されていることを意味しているのである。したがってそこには、安心を超えた信頼を必要とする素地、つまり信頼が提供する関係拡張に対する需要が存在しておらず、そのため「他人一般」に対する信頼が低い水準に抑えられているのである。」

(*)針千本マシン=著者の架空のマシン
・手術で体に埋め込まれていて、嘘をつくと自動的に「針千本」が体に注入され、その人は苦しみ死んでしまう。
・詐欺の常習者が捕まって罰として「針千本マシン」を埋め込まれたとする。
・このマシンを装着している人は「嘘をつけない」ので周りの人は「安心」ではあるが、周りの人はその人を「信頼」している訳ではない。

「日本は安心社会であるが信頼社会ではない」っていう言い回しにグッときた。

次に「機会費用」と「取引費用」って概念が登場する。

・機会費用:ある資源を特定の目的に投資することで、別の目的に投資した場合に得られたかもしれない利益

マグリブ商人の例で代表される「集団主義的秩序」は、行動圏を「集団(村)」に限定することで「村八分」という針千本マシンが働いている。村以外でも自由に生活できれば「村八分」は針千本マシンとはならない。

「つまり、集団主義的秩序を維持するためには、集団に固定した関係の外部に存在する機会を放棄する必要がある。その結果、人々は「機会費用」を支払うことになる。」

「逆に、ジェノバ商人の例で代表される「個人主義的秩序」では、公的な警察組織や司法制度を維持するためのコスト、つまり社会全体が負担する「取引費用」が大きい。」

では、なんでジェノバ商人はわざわざ取引費用の大きい方法を選んだかと言うと:

p50

「グライフはこの疑問に対する回答を、「文化の違い」に求めている。ジェノバの人たちは一般に、「人々は他人のことなどあまり気にしない」という。個人主義的な信念を持っている。そのため、「私は何とかさんとの取引で騙されて大変な目にあった」という廻状をまわしたところで、それは他人ごとだと思われててしまうだろうとジェノバの人々は考えていた。」

第2章「歴史からの教訓」では、この本を読むきっかけとなったマグリブ商人とジェノヴァ商人の話以外に江戸時代の株仲間の話も出てくる。
取引費用と機会費用のバランス視点で、集団主義のマグリブ商人と江戸時代の株仲間は取引費用は低いが機会費用が大きい、逆に個人主義のジェノヴァ商人は取引費用は大きいが機会費用が小さい。商圏が「村社会」から拡大するに従って、機会費用が取引費用を上回ってきて、マグリブ商人はジェノヴァ商人に敗れ、江戸時代の株仲間も消滅したとのこと。

結局、第5章に出てくる第1–2章のサマリがわかりやすい。
p170

「日本人は個人としての他人を信頼できないので、他人を信頼しなくても住む安心社会を作ってきた、そして安心社会に安住することで、他人を信頼できるかどうかを見極めるための社会的知性を十分に育成してこなかった。」

なるほどねー。

これって、日本人は道で会った知らない人に挨拶するのが苦手だけど、欧米人って普通に挨拶してるのとも繋がってる気がする。
会社とか地域とかの「集団主義的秩序」の中では「挨拶をしない」ことが「あいつは挨拶しないやつだ」と言う噂になって針千本マシンになりうるけど、知らない人に挨拶することは、それを求めない(=行動圏を村に限定する)限り意味がない。お互い違う「村」に住んでて交わらないから警戒している。でも、その人と知り合いになって友達になれるかもしれない機会を失っている、つまり「機会費用」を支払っているんだよねー。
逆に欧米人って、知らない人でも目があったら挨拶するってことは、そもそも「個人主義的秩序」の中では知らない人がいるのは当たり前で、単純に挨拶した方がお互いに気持ちがよいから挨拶するんだろうなぁ〜。いや、無意識に「自分は悪意はないですよ」って互いにアピールすることで、個人間の「取引費用」を下げているのかもね、社会的知性ってやつかな。

ちなみに、僕は海外の知人に「海外で同国人にあった時の反応が日本人は変だ」と言われたことがある。
「自分なら海外で同国人を紹介されるとお互いすごく盛り上がるに、ここで日本人に日本人を紹介しても全然盛り上がってくれないんだよねー」って。

(2) 斜め読みの第3章「実験研究からの教訓」、第4章「評価と評判」

たぶん、この社会科学実験の章がこの本のメインがなんだろうけど、正直言うと実験の詳細は斜め読みして考察だけ読んだ。僕には縦書きの本の苦手な点があって、数字をたくさん含んだ文章を縦書きで読むと頭に数字が入ってこない。
んーんと、いいや、もっと正確に言うと、僕はそもそも数字がたくさん出てくる文章が苦手で、しかもそれが縦書きで書かれていると読む気がしなくなる:p

ヤフオクを模したような実験用ECサイトで「ネガティブ評価(減点方式)」と「ポジティブ評価(加点方式)」を試した話だけど、ネットのように悪いことした後にIDを自由に取替えることができる世界(再参入可能)では、ポジティブ評価が有効だって話。

p102

「ネガティブ評価が有効なのは、悪い評判を得た相手を人々が避けようとするからである。つまるネガティブ評判は、不正な行動をとる人間を仲間から追い出すために使うことができる。こればネガティブな評判がもつ「追い出し」機能と呼ぶことができるだろう。
(中略)
再参入可能なネット市場に代表される開かれた市場では、人々はポジティブ評価を維持しようとする。それは良い評価が、ポテンシャルな取引相手を呼び込むからである。良い評判を得ることによって、新たな取引相手が自分のところに寄ってくる。悪い評判をつけることで追い払うのではなくて、良い評判を維持することで、自分のところにみんなが寄ってくるようにするのである。これが、ネット市場でポジティブな評判が果たす「呼び込み」作業である。要するに、個人にブランド化だと言っても良いだろう。」

なるほど、なるほど。

この本から10年近く経っている現在(2018/4/8)では、世界ではUber/Lyft/Anbなどのシェアリングエコノミーが花盛りだが、これらのサービスを支えている「会ったこともない人への信頼」は、欧米の個人主義的秩序社会に加え「ポジティブ評価」がうまく機能しているってことかもね。もしかしたら、ネットの習熟度視点では、芸能人の不倫とかアホみたいなことで炎上する「ネガティブ評判」活用フェーズと、シェアリングエコノミーを支えるような「ポジティブ評判」活用フェーズがあって、日本はまだ、「ポジティブ評判」活用フェーズに行けてないのかもしれない。社会的知性の不足かなぁ。

で、こんな記事を思い出した。

日本各地で暗躍する中国版白タク「皇包車」の実態 — 高口康太(ライター・翻訳家)

「 マナーやサービスの良さがシェアリングエコノミーの特徴だ。中国シェアリングエコノミーの雄に「滴滴出行」がある。同社はウーバー型のライドシェアを導入しているが、初期にはタクシー業界から猛烈な反発があった。ストライキや抗議集会も頻発したが、世論は滴滴出行を支持した。ガラの悪いタクシー運転手よりも滴滴出行のドライバーのほうがよっぽどマナーがよいというのだ。

滴滴出行では乗車後に客が運転手を1~5点で評価する仕組みが採用されており、評価の低いドライバーは仕事を受注できる機会が減ってしまう。儲けるためにはマナーをよくするしかないのだ。精神論ではなく、利益駆動型の道徳システムがそこには存在する。先のドライバーも「私は信用を守りますから」と繰り返し話していた。トラブルがあっても自分の評価を下げたくないと必死だったのだ。

ちなみにドライバーが乗客を評価するシステムも組み込まれており、行儀の悪い客はその後ライドシェアを捕まえにくくなる。快適に移動したければ、よい客として振舞うしかないのだ。」

(3)消化不良の第5章「開かれた安心社会に向けて?」

この章には中国に関するとても面白い統計データが出てくる。

p161

「この調査(2008)には、「この社会のほとんどの人は信頼できる」と思うかどうかを尋ねた質問があるが、図5–1はその質問に対する回答を世界の回答を世界の地域と国ごとに示したものである。
(中略)
驚くべきことに、「この社会のほとんどの人は信頼できる」と回答した人たちの比率は、世界中で中国人が一番高いのである。中国に続く国はスウェーデン、カナダなどの、一般に高信頼の社会だと考えられている国々である。
(中略)
ついでに、この調査での日本人の信頼水準を見るとアジアで最低であり、紛争の絶えないアフリカや東欧の国々並みに低くなっている。」

この調査だけでなく、複数の調査が同様のことを示しているらしい。

日本人の信頼水準が最低レベルだって話は、第1章の「日本は安心社会であり、安心社会では信頼は生まれにくい」ってことで納得できるけど、なんで中国人の信頼水準は世界最高レベルなんだろう。

この本でも、そこに注目してさらに社会実験をやっていろいろ仮説を立てているが、最後はこんなまとめになっている。

p188

「ここで紹介した仮説が正しいかどうかは今後の研究に進展を待つ必要があるが、本書の文脈で重要なのは、いずれにせよ、日本人は他人に信頼を示すことに不安を感じているのではないかという点である。この不安が、「安心、安全」のみを求めそのためのコストに目をむけようとしない、現在の日本人の姿勢の根本に横たわっているように思われる。信頼を示すことに対する不安は、ますます日本人を安心の殻の中に閉じ込めることになるのではないだろうか、と。」

たしかに、日本人は「安心の殻の中」に閉じこもっているなーと感じる。

僕は2012年に中国関連のプロジェクトに参加し、何度か出張を繰り返した後に中国人の同僚と2人で1年間駐在したのだけど、日本から中国へ行くたびに興奮していた。中国は日本と全然違って、若くてすごく活力にあふれていた。日本が無くしたものがそこにあるような気がしていた。
今もたまに上海や深圳にプライベートで行くが、ますますダイナミックになっていて目が離せない。

2012年に何度か中国に一緒に出張に行った年下の日本人の同僚が言っていた言葉が忘れられない。
「羽田空港に帰ってくるとホッっとします。トイレが綺麗なんですよねー。」

なんか、中国の信頼水準のことが気になって、消化不良中。

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Kenzo Nagahisa(永久健三)

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