アートとは何か。現代アートとは何か。西洋美術史から考える。

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現代アートといえば、意味の分からない誰でも描けそうな絵画が○○億円で取引されていたり、意味の分からない造形物が美術館に飾られていることが多い。そこで、アートとは何か、現代アートとは何かについて、まずは芸術ではなく西洋美術の歴史から考えてみる。

美術の歴史を考える上で大事なことは、現代では趣味として芸術活動をする人たちも多いが、前提として芸術家もしくは美術家(何と呼ぶべきか分からない)は今も昔も絵画などの芸術物を買ってもらうことで生計を立てるものである。したがって、近代以降の芸術の形は少し異例であるということ。

では、歴史的に特に絵画などの美術の立ち位置とはなんだったのか?まずは美術の誕生を考えたい。その上で重要な鍵となるのは識字率になってくる。

(エジプト文明などの超昔の壁画や洞窟の絵は飛ばす。)

識字率

では、絵画が果たした役割を見ていく。

布教・教育(統治)のため

だから、美術館で飾られている絵画はギリシャ神話やキリスト教の様々な場面を描いた神話画や宗教画も多い。

次からは、布教のためだけではない絵画を見ていく。

願掛けのため

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それから少し時代が流れるとキリスト教の場面を描きつつ、布教以外の意味を持つ絵画が現れる。面白いことに聖書の中の話がある時代のある地域で多く描かれるということがある。なぜか?例として上記の絵(トビアスと天使)で説明する。

これは、『トビアスが相手を天使だとは知らずに道案内をする。旅立つ二人が心配なトビアスの父だが、相手は天使なので何があっても大丈夫だ』という聖書の中の話。(あんま詳しくないけど)

この話に関する絵が15世紀ごろのフィレンツェなどのトスカーナ地方でたくさん描かれた。当時のこの地域では銀行業が栄えたのだが、高利貸しはキリスト教で禁止されていた。そこで海外の支店などを設けて上手く誤魔化していたのだが、お金を海外の支店に運ぶという仕事は本当に信頼できる身内の者だけが担っていた。当時の長距離移動はとても危険である。この身内の者の旅の安全を願うために、トビアスと天使の話を描いた絵画を願掛けとして彼らの安全を祈っていたのだ。天使が守ってくれると。

絵画のメッセージを読むと当時が理解できる。美術館は歴史博物館。

次は、少し違った意図で美術家に絵を描いてもらうことを依頼する例。

善を積んでるアピール

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このミレーの落穂拾いという絵は貧困層を描いた者である。右上にうっすら馬に乗った上流の地主がいるのがわかる。なぜ、このような貧困層を描いた絵を買う人がいるのか?当時は他にも貧困層を描いた絵が多数ある。

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金持ちがこのような絵を買う理由は簡単で、『貧困層を気にかけ、彼らを助けているよ』と善を積んでいるアピールをするためだ。絵を買って、本当に貧困層を気にかけ、助けているのかは分からないが、とりあえず周りに金持ちなだけではないとアピールし、徳を積んでいることを見せつけ神に救われたいと思っていたのだろう。上の絵(ブドウとメロンを食べる二人の少年)では、服はボロボロだが、新鮮な食料を食べている描写から背景に金持ちがいることがわかる。食料を与えて助けているのは私です的なアピールが絵画で可能になる。

他にも

時代の節目に王が歴史的な出来事を描かせたり、自分の偉大な功績を示すために壮大な建築をさせたり、自画像を描かせたり、

貴族が海外旅行した時に当時は写真がないので、記念に現地の風景画を購入し、そこに行った&金持ちアピールや、

帝国主義の時代には商人たちが力をつけ、彼らにとってまだ未知の東方の文化や奴隷を白人と共にキャンバスに描かせ、

もう少し近代に近づくと、富裕商人たちの家に飾るために、これまでの痛々しい絵より風景や静物画が好まれるようになったり、などなど

いずれにせよ、近代以前の芸術家は自分が描きたいものより、基本的には絵画を買う上流階層側の需要に答えてきたことが分かる。そして、これらの絵画はリアルに描かれ、強い写実性が求められた。それは、いかに上手く目の前の現実を二次元に落とし込むかという技術を追求していたということ。

それから産業革命の時代くらいに印象派などが出現し、どこか近代や現代アートのようなテイストが出てきた。印象派とは今までのような写実性を求めたもではなく、イメージで一瞬を描く新しい美に対する価値観の表れだった。更にその後には、キュビズムや抽象画といった写実性がなく、美しくない意味のわからない絵画も増えてきた。なぜ、そのような美しくない意味の分からない絵画が評価されるのか?それは、絵画が美術というより芸術(アート)の側面が強くなったのだ(と考える)。絵画が上流階層から半強制的に描かされるものではなくなってきた。にも関わらず、なぜ売れるのか?そこで、美術と違って芸術(アート)とは何か?になってくる

もう結論を言ってしまえば、歴史的な支配者の需要に答える美術とは違い、

アートとはこれまでの価値観・美の基準を変えること。人の世界の見え方を変えることがアートである。

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1枚目は『パリの通り、雨』、2枚目は『大はしあたけの夕立』という絵画で、両方とも雨の日の風景なのだが、1枚目の絵は雨粒が全く描かれていない。パリの絵から分かるのは、この時代のパリの人は、世界中の人は雨が見えてなかったということ。歌川広重が初めて雨を線で表現した時に人間は雨を線だと捉えるようになった。世界が雨は線だよねってなってしまった。今僕たちが当たり前のように雨は見えていると錯覚しているのは歌川広重というアーティストのおかげなのだ。アートは人間の世界の見え方を変える。だからこの絵にはものすごい価値がある。

他にも、

アンディ・ウォーホルのポップアート

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これもアンディ・ウォーホルという芸術家が世界の美の基準を変え、世界の構造まで変えてしまった話。これまで芸術作品といえば、芸術家が産み出した唯一無二なものなはずだった。だが、アンディ・ウォーホルが誰もが知っているキャンベルスープの缶の絵を印刷して大量生産して展示することでこれまでの常識を覆した。当時は「こんなのアートじゃない」と大きな物議になったが、当時はそもそも産業革命による大量生産・大量消費もあって、「みんなが知ってるのはかっこいい」、「蛍光塗料かっこいい」って感じで、みんながこれまでになかった新しい『かっこいい』に美の基準が変わってしまった。

一旦世界の美の基準が変わってしまうと、世界の構造を変え、経済も変えてしまう。ウォーホルのポップアートにより、ラグジュアリー産業が発展した。それまでは、唯一無二のオーダーメイドの服だけが高価で売れていたのに、そうじゃなくてもかっこよければ高価で売れるようになってしまったのだ。大量消費社会やマスメディアなどの発展はウォーホルがもたらしたと言っても過言ではない。

結局、これらの時代の変化というものは、ウォーホルが示した価値観・作品抜きでは語れなくなってしまった。だからものすごい価値がある。

ちなみに、ウォーホルの価値が上がると、その周りも価値が上がる。それがあの有名な前澤社長が123億円で落札したバスキアの絵。

次は、これ。

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『緑の筋のあるマティス夫人の肖像』この絵も大きな物議をかもした。1905年の作品だが、それまでの絵画はいかに上手く3次元を描くかという写実性を追求したものだったのに突然マティスは現実にはあり得ない配色の顔面を発表したのだ。当初は、下手くそだとボロクソに批判されたらしいが、マティスは色彩の持つ神秘的な力を表現したかったらしい。色の持つイメージや意味のようなものを表現したかったのだとか。例えば、温和な人には暖色系のイメージを持つとか。世界を伝統的な見方に縛られない色で見るのもありだよな、と一旦世界がこの新しい美の価値観に気づいてしまえば、そこからどんどん価値がついてくる。

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カンディンスキー という人物は抽象画の父と言われている。正直この絵はなんなのか意味がわからん。

でも、彼のことを調べてみると、面白い話がある。ある時自分が描いた絵を逆さまから見た時にものすごい美を感じたそうだ。この時自分の絵だと気づいていないのが重要で、一旦自分の絵を逆さに見ていただけだと気づくともう全く美しさを感じなくなったらしい。

それから彼は何を描いてるのか分からないのに美しいと感じたあの絵を再現しようとした。ところが、何かを描くのに何か分からないものを描くのにとても悩んだらしい。抽象画とは絵画を超えた美しさなのかもしれない。

ペトラルカという学者が『人を魅了するものは何とも言えないもの』という言葉を残している。美しさとは何なのかと考えてしまう。抽象画を語るにはこの作品なしでは無理なので、これにも価値が相当ついてくるのは当たり前の話。

次、

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これはもう驚愕でしかない。デュシャンの『泉』。小便器をただ横に置いて、サインをしただけだ。これも最初はもちろん大物議と大批判だ。これの作者の意図は何なのか。アートって何なんだよ、アートって言えば何でもありなのかよってなるが実はこれが正しい。しかもこれが、難解な現代アートの礎になってしまった。やってくれたなデュシャン。

これが言いたいことは、『生活の中の日常的な物を取り上げ、新しい題名と新しい観点を与える(アートと言ってしまう)と、元々の存在意義が失われる』つまり、便器に対する新しい思考を観賞者に創らせてしまうということ。これが新しい価値観、新しい世界の見方。

日常の物をアートに引きずり込むのはポップアートにも似ているが、アートって言ってしまえば何でもアートになってしまうのだ、カッコ思考を変えればね、的なノリ。これが現代アート。芸術の概念を創り出す行為から知的な解釈に変えた。目の芸術ではなく脳の芸術。これで一見すると意味不明なアートの誕生って訳だ。

デュシャンが提示した普段見ているものに対する「新しい思考」の創出はコンセプチュアルアートの基盤となった。そうなると、この便器が新しく芸術の概念を変えたきっかけのものとして説明するのには必要不可欠になってしまい、たいそうな価値がついてしまう。便器に。悔しい。

まとめ

それに比べると近代以降の芸術作品は、新しい価値観・美の基準を変え、人々の世界の見え方を大きく変えたものが素晴らしい評価を得ている。新しい価値観というものは、どれを見ても最初は否定されているけど、今までにない新しい心の奥底で感じる感情的な「かっこいい」や「美しさ」が徐々に受け入れられ、浸透していくことで素晴らしい現代アート作品になっていった。

それでも、やっぱり現代アートは難解すぎるものが多い。おしゃれな人の一般人には理解できない逆にダサいと思う変なファッションのようなものに似ているように、彼らの思考は何段階も上をいく凄まじいものなんだろう。そういったものをより深く理解するためには知識や教養がかなり要求されるけど、この地球での出来事や人間社会の事象はできるだけ多く知りたいものだと感じる。頑張りたい。

以上、個人的な見解をまとめました。間違ってること言ってたり、思うことがあれば教えてください。

Twitter : @ko__david

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