健全な批判精神を持とう~情報社会を生き抜くためのスキル~ (ショートバージョン)

こんにちは、草野広大と申します。今回はこの分野のブログを立ち上げたShu Uesugiくんからの誘いで教育について書かせて頂くことになりました。教育xITの分野は全く素人ですので、自分なりの視点から良い「教育」に繋がる記事を書いていきたいと思います。

今回の記事のテーマは、「健全な批判精神を持とう」ということです。

健全な批判精神を持つことこそが、これからの情報社会で生きていくうえで最も大切なことで、またこれから教育されるべきことだと自分は思っています。

今回の記事は、ショートバージョンで2部構成になっています。(自己紹介を含む3部構成は、こちら

1部から本題に入り、なぜ「健全な批判精神」を持つことが重要なのかを、自分自身の経験や具体例を交えて伝えていきます。問題提起の段落ということです。

2部では、1部の問題提起を受けて、解決法を提示したいと思います。二部を踏まえたうえで、「じゃあ具体的に健全な批判精神をもつって、どういうことなの?」「これからいったいどうすればいいの?」という疑問にたいして、私が大学院で学んだ、現在進行中で学んでいるスキルをできるかぎり集約しました。前半を飛ばした人にも、なるべく理解できるように努めました。

1部 ~情報社会の罠~

平成26年度、東京大学教養学部卒業式の式辞で、元東京大学の教養学部部長の石井洋二郎教授が、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ。」という言葉の真偽を巡り、情報の信憑性について疑問を投げかけました。私はこの式辞にとても感銘を受け、このことについてはより多くの人に知ってもらいたいと思い、今回の記事を書くに至りました。(以下、平成26年度教養学部学位記伝達式 式辞 より一部引用、こちら原文

“皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。 しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。”

「知る」とはどういうこと?

まず私が読者の方々に問いたいのは、私たちは普段、どのようにして物事を「知る」のか?ということです。日本人のほとんどはまず学校に行って、色々な知識を得ようとします。学校の外でも、本を読んだり、ネットを漁ったり、セミナーに行ったり、また友人と話したり、先輩や上司からアドバイスをいただいたり、色々な方法を使って知識を得ようとします。哲学的に「知る」とはなにか?などを問うつもりはなく、完全な正解など私にもわかりません。とりあえず本文では、「ある物事や事柄が確かにあると認識している状態」と定義します。

私が強調したいことは、「知る」にもいろいろな方法がある、ということです。そして、そのことを少しだけ意識してみることが、現代の情報社会を上手く生き抜くための批判精神に繋がるのではないかと思うのです。

具体的に例を挙げて見ましょう。

私が大学院に入ってすぐ、「日本の集団主義とアメリカの個人主義の現代における変化について研究したい。」と指導教官に伝えました。すると、

How do you know that (the Japanese culture is collectivistic and the American culture is individualistic)?(どのようにして日本が集団主義でアメリアが個人主義だと思うんだ?)」と聞かれました。

私は、「日本人は集団主義で、アメリカ人は個人主義だという事が心理学の教科書に書いてある。このあたりのテーマが面白いと思ったからだ。」と答えました。

そこから色々ありましたが、とりあえずテーマは決まったので、早速、個人主義と集団主義にまつわる心理学の文献を一からきちんと読む作業がしばらく続きました。

すると驚くことに、過去30年間日米の間で行われた比較研究で、「日本人はアメリカ人に比べて集団主義的だ」と示す確かなデータは、ほとんど存在しないことが分かりました。

例えば心理学では、人の態度や価値観を測る際に、下のような質問紙を使うことがあります。

「誰に投票するのかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか。」という質問があり、「両親」「親友」「近所の隣人」などのそれぞれの人間関係に対して、

「非常に気にする場合は 5」

「かなり気にする場合は 4」

「どちらでもない場合は 3」

「ほとんど気にしない場合は 2」

「全く気にしない場合は 1」

と記入していきます。「非常に気にする場合の 5」を選んだ人は、周りの人の意見に左右されやすいのだから、より集団主義的だと言えることになります。このような質問を色々な場面や状況について聞き、平均点を統計を使って比較する、というのがスタンダードな方法です。

このような調査のほかにも様々な研究者が作った心理尺度、さらには協力行動、同調行動などに関する日米比較の実験研究もありました。もし日本人の方が集団主義的なら、アメリカ人よりも高い強調行動と同調行動を示すはずです。さらに、このような研究では、研究者たちの個人的な意見や先入観が回答者に影響しないように、最大限の配慮がなされています。しかし、「日本人の方がアメリカ人よりも集団主義的だ」と示す客観的データはほとんど存在せず、むしろ「アメリカ人の方が集団主義的だ」と支持するデータの方が多いことが分かりました。

このとき私は、最初に自分が放った言葉、「日本人は集団主義で、アメリカ人は個人主義だという事が心理学の教科書に書いてある。」を思い出し、その考え方全てが浅はかだと気がつきました。無知の知を実感すると、ものすごい羞恥心を感じますが、その羞恥心が新たなモチベーションになった瞬間でもあります。

(日本人論の間違いとその由来については、東京大学の高野陽太郎教授が、こちらの本で徹底的に解説しています。今回の日本の集団主義にまつわる情報はほとんどこの本から引用させていただきました。)

さて、この私の失敗例を通して、色々な「知る」のレベルを見ていきましょう。

1.他人がそういっているから知る

まず私の犯した最大の間違いは、「教科書に書いてあるからといって、簡単に信じてしまった」ことです。教科書とは、その時その時の「主流」な知識の要約であり、主流だからといってそれが正しいということの根拠にしてはいけないと痛感しました。実は、集団主義・個人主義の枠組みは、文化心理学の中でも一番研究されているトピックで、「日本のような集団主義の国ではアメリカのような個人主義の国に比べて~」というようなことは、未だにどの心理学の教科書にも堂々と書いてあります。けれど、実際にその真偽を一から自分の手で調べてみると、その主張を否定する根拠が存在し、その主張は間違いの可能性が非常に高いことが分かりました。また、専門であるはずの心理学者や研究者でも、「この分野で人気なら、確からしいに違いない」と思い込み、自らの手で一つ一つ真意を確かめようとする人は、実はそんなに多くないということを知りました。

2.自分自身の体験を通して知る

第二に、私の犯した間違いは「自分の経験を頼りに起こったことを疑いもなく信じてしまった」ことです。つまり、「日本人は集団主義的だ、アメリカは個人主義な国だ」と社会や周りの人から言われて、そして自分の目でもそのような光景を実際に見て育ってきたため、そのような認識を持っていたのです。さらにこのような自分自身の経験と、教科書の内容が一致していたが為に、余計に疑うことなく信じてしまったともいえるでしょう。

ではなぜ、自分自身の体験に従うことは、理由の根拠としては弱いのでしょうか。「俺は自分の目で見たものしか信じないぞ!」と思う人がいるかもしれません。しかし、個人の体験談や経験則に従い、物事の真偽を究めようとすることの限界を、少し説明させてください。

心理学で、「確証バイアス」というものがあります。確証バイアスとは「自分の仮説や期待を支持してくれる情報ばかりを探してしまう」という、よく研究された人間の認知バイアスです(この現象に関する研究の論文はこちら)。

例えば、「日本人は集団主義だ」という先入観をもった人ならば、きっと日本人が控えめで、周りに気遣って、主張しないシーンばかりが目に入り、そのような情報しか記憶に残らないでしょう。

しかし、全く逆に、「日本人は個人主義だ」という先入観をもった人ならば、きっと日本人のユニークなファッション、わがままな一人っ子、受験における厳しい競争など、そのような先入観に合った情報を多く探し、記憶するようになるでしょう。

実際に私自身の経験をよく振り返ってみると、実はアメリカ人の集団主義的な一面は探せばいくらでも見つかることが分かりました。アメリカではサンクスギビングなど、祝日に家族みんなで集まって何かをする、ということも多いですし、家族愛はとても強いものがあります。オリンピックなどになると、腹が立つほどアメリカ人たちは団結して、アメリカ国民だということに対してプライドを持ち始めます。

このように、自分自身の体験や記憶には偏りが生じるので、それだけを頼りに現実を正確に捉えようとすることには限界があります。さらにもう一つ、体験談や経験則に従うことの限界を挙げて見ましょう。

私たちは今、なんの疑いもなく「地球は自転している」と知っています。でももし、体験談のみを信じていくのであれば、実際に地球が回っている感覚を肌で感じることはできないので、地球が回っているのか、それとも月や太陽が地球の周りを周っているのか区別がつかなくなります。このように、自分の体験談に従うことには、物理的な制約もあります。

このような体験談だけをもとに物事の真偽を決めようとすると、どちらの場合も同様に確認することができ、また人間は自分の都合の良い情報しか持ち合わせていない・探さない傾向にあるので、それらを総合的に比較して、真偽を客観的に判断することは非常に難しくなります。ですから、体験談のみを手がかりにした議論では、相反する意見をもつ人同士がぶつかったときに、どちらも最もらしいことが言えてしまうため、どっちつかずの状態が続いてしまいます。これでは、本当に正しいことを言っているかもしれない人が「自信がない」とか、「年下だ」とか、「態度が悪い」という関係のない部分で否定されてしまう場合もあるのではないでしょうか。

3.客観的手法に基づくデータで知る

私が集団主義・個人主義にまつわる過去の論文を一からきちんと読み、データを解釈して辿り着いたのがこの第三の「知る」です。そして多くの学問における研究行為は、このレベルの「知る」に該当します。データを使わない学問領域もありますが、私の関わる心理学は、客観的な手法によりデータをとり、知識を捻出していく学問です。このように捻出された知識は、しばしば我々の直感と食い違いますが、どちらを信じた方がよいでしょうか?このように得られたデータというのは、一般化でき、客観的です。私はやはり、このような知識の方が現実をより正確にとらえていると思います。「地球は自転している」という知識もまた、科学的な手法で証明された知識であるのです。

情報化社会の落とし穴

さて、以上の三つの種類の「知る」を念頭において、現代の情報社会について考察してみましょう。

インターネットがあれば、なんでも自分で知ることができる。だから、大学なんていらない」という主張を聞いたことがあります。しかし果たして、インターネットは私たちに「正確な」情報を与えてくれるのでしょうか? 私は、このようにインターネットの便利性に対して過信している状態は、非常に危険だと思っています。

Google, Twitter, Facebookなどのツールがスマートフォンと掛け合わさって、情報交換が激しくなった今、身近な人から色々な情報を入手しやすい時代です。自分の身の回りでおきている事なのだから、世の中の「多数派」の意見を反映しているはずだし、だからより真実に近い、と錯覚してしまう人もいるのではないでしょうか。

Googleなどの検索エンジンでは、必ずしも信憑性のある情報が優先されて並べられる訳ではありませんし、今はアルゴリズムによって自分が過去に検索した内容からさらに自分の欲しいと思われる情報を提示してくれるようになっています。このような「自分の探したい情報を簡単に見つけてくれる」機能は、特に1と2の知識を極端に助長する可能性が高いと思います。

インターネットで検索をするという行為は、自分の持っている知識に対して根拠のない自信を与えてしまいます。このことを実証した、心理学の面白い研究が最近発表されました (原文)。

この実験に参加した被験者は、「竜巻はどのように形成されるのですか?」などのありふれた問題からなる二つのクイズに参加し、あるグループでは、インターネットを使って説明を検索するよう指示され、もう一方のグループでは、自力で答えるように指示されました。そしてクイズの後半で、前半のクイズとは関係のないいくつかの分野の問題に対して、「このような問題について、どのくらい自信を持って答えられますか?」という自己評価を求められました。すると、インターネットで最初に問題の答えを検索するよう指示されたグループの方が、自力で考えたグループよりも高い自己評価を示しました。この研究は、「インターネットで検索するという行為は、"知っている”という自信を増加させる」という因果関係を結びつけた非常に価値のある研究です。

さらに、Wikipediaに関する研究もあります。2013年に、アメリカの医師達が最もコストのかかる10の病気についての知識を、Wikipediaと最新の査読付き論文を比較してその信頼性を調べた研究があります(簡単な記事はこちら。原文はこちら)。

この研究で分かったことは、医学や健康に関して言えば、それぞれの専門家達によるとWikipediaの90%ほどが間違った知識であったそうです。Wikipediaといえば、なにか知りたいことをネットで調べると大体1ページ目の上位に出てくる、誰もが編集できる便利な情報サイトです。

これらの研究で分かることは、「インターネット上で簡単に手に入る情報はそもそもあてにならない可能性が高いのにもかかわらず、インターネットで検索するという行為は"自分は知っている"という根拠のない自信を増加させる」ということです。

嬉しいことに、信憑性の高い学術的な論文は今やほとんどがインターネットで手に入ってしまいます。きっと、「大学不要論」はこのようなことが根拠となっているのでしょう。しかし、私たち自身に正しい情報検索の仕方や論文を読みこなせるほどの批判精神と専門知識が備わっていなければ、せっかくのリソースも全く役に立ちません。

ここで私が問題提起したいことは、石井洋二郎教授と同じく、「情報が簡単にたくさん手に入るようになったからといって、それぞれの情報の真偽を判別する批判精神を私たちが持ち合わせていなければいけない」とうことです。

2部 ~健全な批判精神を持とう~

私たちが普段何気なく手にいれる情報がいかにいい加減なものでありうるか警告をしたつもりですが、では「批判精神をもつ」ということは、具体的にはどのような事なのでしょうか?三部では、私が大学院で研究者たちと議論を交わす中、学ぶことができたいくつかの方法などを、まとめたいと思います。

⒈ 世の中は複雑だという自覚をする。

まず第一の心構えとして、「世の中は私たちが思っているほど、単純にはできてはない」ということを自覚することが大事だと思います。いちいち情報の真偽を見極めようとするのは、根気がいるし、面倒くさいです。しかし、楽をして世の中の成り立ちが分かってしまうほど世の中は簡単ではないし、正しい知識を生み出したり、探し当てることは、本来とても難しいことだと思います。このことをまず認識して、謙虚な態度で物事の真偽について考えられるようになることが何よりも一番大事だと思います。

2.情報の受け手が変わらなければいけない

現代社会では、基本的には誰もが好きな事を発言してもよい時代です。しかし石井洋二郎教授が言っていたように、ほとんどの人は"別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけ"の可能性があります。もしそうであれば、真偽についての責任を無限に存在する情報発信者に委ねるより、情報の受け手である私たち自身が、強い批判精神を持つ方が現実的でしょう。押し寄せてくる情報の波に、当たってもぶれない強い批判精神(芯)を持つことが大事なのではないでしょうか。

3.エネルギーを注ぐ分野を見極める。

多くの情報から真実を見極めるのは、それなりに時間がかかります。全ての情報の真意を突き止めることは、時間の制約上不可能です。この問題を解決するには、「何が自分にとって大事な分野か」をまず判別して、批判的な態度を作動するべき場合とそうでない場合を、見極めるようにするのがいいのではないかと思います。

たとえば合コンで「B型の人は、自己中だ!」とある女の子が言ったとします。そこで「科学的な証拠はあるのかい?(キリッ)」と言い返しても、ただのうんちく野郎のレッテルを貼られるだけでしょう。そういう時は、「間違っている場合もあるけど、ここは真偽を調査する場ではないかな。」と心の中いそっとしまっておいて、その場に馴染むのが無難でしょう。

または、「情報が間違っていた時の自分や周りへのリスク」を考えて、批判的モードのスイッチを入れても良いでしょう。「B型の人は自己中だ。」という主張が仮に間違っていたとしても、自分に対する被害はそこまで多くないはずです (その子に気に入られたければ別です)。しかし、自分が会社の社長だったり、誰と結婚するかだったり、どの薬を飲んだらいいか、どの学校に通うかとか、自分の将来に大きく影響したり周りの人の人生を巻き込むような場合は、それなりにしっかりとした情報収集に基づいて判断を下したほうがいいのではないでしょうか。

自分が情熱を持って知りたい分野はきっとあるはずです。そのような分野にだけ、批判精神をオンにし、とことんエネルギーを注入しましょう。エネルギーをかけるべき時とそうでない時を自分の中で明確にしておけば、それ以外の情報はとりあえず「間違っているかもしれない」けど、そのことを自覚さえしておけば良いのです。

また、このような事を念頭に置いておけば、自ずと情報発信者の信憑性も判別できるようになるはずです。教育に関して素人である、例えば「芸能人」が、教育についてあれこれ語っていても、そこまで深く考えないで適当な事を言ってる可能性が高いでしょう。それよりも、教育の事をそれなりに時間をかけて考えている教育学者の方が、よりしっかりした情報を知っている可能性は高いと思います。専門家の話を鵜呑みにするのはよくないですが、専門でない人のいう事を鵜呑みにする方が、間違う可能性はもっと高いと思います。

4.「HOW (どのようにして)」を問い続ける。

よく、物事を考える際は「WHY(なぜ)」を問い続けることが大事だと聞くことが多いと思います。しかし、「HOW(どのようにして)」に着目する見方も、実は強力な武器になります。

たとえば、ある情報発信者が「アメリカの大学の方が日本の大学より優れている」と主張しているとしましょう。この人は、どのようにしてこの主張が正しいと思っているのでしょうか?

そのような場合、(もし直接聞ける機会があれば)「なにを以てしてそのように思うんですか?(How do you know that?)」と聞いてみてください。

「HOW」の質問の利点は、情報発信者がどのようにしてその情報を得たかの「方法」を追求することにあります。

そうすると、二部で説明した、どのレベルでその人が知っているのかを炙りだす事ができます。

大学ランキングの話を例にして見てみましょう。

最近私のフェイスブック経由で回ってきた、こちらのForbes紙によるアメリカの大学ランキングでは、かの有名なハーバード大学がアメリカで7位だと発表されています。しかしよく見てみると、「どのようにして」ランキングが算出されたのかの方法が不明なので、どうやら筆者の完全なる主観に基づいたランキングだということがわかります。これでは、ランキングを公平にジャッジしたとは到底言えません。きっとこの記事の著者はハーバードに恨みでもあったのでしょう。

もう少し信頼性のありそうな国際ランキングを見てみましょう。

U.S. News Best Global Universities Ranking によると、東京大学 は24位にランクしています。しかしランキング算出方法(Methodology)を見てみると、論文がどれだけ引用されているかが特に重視されていることが分かります。世界のアカデミアは、英語で論文を書くことが主流なので、日本語での論文を多くだしていては、圧倒的に不利であることは明らかです。しかし、果たして英語で書かれた論文の方が、日本語で書かれた論文よりも優れていると言い切れるのでしょうか?

このように世界大学ランキングの算出方法を少し見てみると、英語圏の大学が完全に有利になるように仕組まれていることがわかります。このようなことを踏まえたら、ランキングだけを見て「アメリカの大学の方が日本の大学より優れている」という主張を簡単に鵜呑みにすることはできません。

世に出回っている大学ランキングは、ランキングの算出方法が明らかでないものや、曖昧なものがほとんどなのではないでしょうか。また一体どれだけの人が、どのようにしてそのランキングが算出されたかを理解し、納得して信じてるのかはわかりません。もしハーバード大学の学生が、どのようにランキングが出されているのか自分で理解して納得もしていないのに、「ハーバード大は東大よりも上だ!」と主張しているなら、都合が良すぎると思いませんか。

アメリカの大学が日本の大学よりも優れている最もらしい理由、「WHY」は、いくらでもあるでしょう。しかし、その理由についての「HOW」を徹底的に問うことで、その理由がどのようにして得られたのか、またどの程度妥当で正当なものであるかを判別することができると思います。

5.情報発信者が情報を正しく引用をしているか見極める。

「HOW」に関連して、もう一つ有効な方法は、「情報発信者が正しい引用をしているか」に注意を払うことです。

引用に気を配って情報を判断していくと、情報発信者が、一次情報の出所と、どこまでがデータに基づいて、どこまでが自分自身の言葉で、どこまでが推測なのかをどの程度自覚して話しているかどうか が分かるようになります。このようなところをはっきり自覚していなければ、情報発信者自身が一次情報の真偽すら把握していない状態なので、そのような人のいう事を信じるには注意が必要です。

もう少し細かい点でいうと、主語と動詞に気を配る方法も有効です。情報発信者が、主語を曖昧にしていたり動詞に気を配っていないと、どこまでが信念で、どこまでが事実で、どこまでが迷信で、どこまでが第三者の言葉なのか、わけが分からなくなります。

また、「統計」「実証」「実験」「脳科学」など、科学的っぽい用語を連投していても、情報発信者自身がきちんとその意味を理解して使っているのかは、注意が必要です。先ほど大学ランキングを例に見たように、なにかしらのデータを引用しているのであれば、そのデータがどのようにしてとられたのかを情報発信者が一次情報に立ち会ってきちんと理解して、納得した上で使用しているかどうかを判断しましょう。

ちなみに私が、東京の新宿紀伊国屋にある「自己啓発」分野の棚をザッと手にして見た本のほとんどが、この引用の部分をとてもいい加減に扱っていました。本に書かれた全ての事象が、あたかも筆者が発見したかのように書かれている本もありました。自己啓発の分野に限って言えば、情報の信頼性はかなり疑ってかかるべきでしょう。

このテクニックは、大学などの高等教育で卒業論文を書いたり、ライティングの授業を取り、実際に筆者の立場になって書いてみることで身につけられると思います。

6.批判する相手に敬意を払う。

タイトルに、「健全な」批判精神としてあるのは、むやみな批判を避けるためでもあります。

「批判」というと、喧嘩みたいなイメージを持たれるかと思いますが、批判があってこそ、物事は発展していくものだと思います。

批判をする対象は、結局は批判する側に考えるきっかけを与えてくれているので、真実に近づくためのアシストをしています。このように考えたら、批判をされる側は尊敬されなければいけません。

また、批判をするなら自分が情熱を持てる分野のみに絞りましょう。もし自分がその分野に対して強い情熱を持っていたら、真実の追求が第一優先であるはずです。批判する相手に敬意を払う行為は、「あくまで私たちが興味があるのは真実だけだ」という共通理解を促すことにもつながるのではないでしょうか。もしもお互いがこのような共通理解を持ち、お互いを尊重しあえれば、本質とは別のところで無駄な軋轢を避けることができると思います。

〜最後に〜

最後に誤解をして欲しくないのが、真実を究めようとすることが、必ずしも優れているとは限らないということです。今回書いた批判精神は、あくまで物事を「知る」一つの手段であり、他にもいろいろな方法があるはずです。世の中には、本当の事を知らない方が幸せであることもあるだろうし、本当の事を知る事自体にあまり興味のない人もいると思います。ただ、現代の社会では情報があまりにも散乱していて、もしかしたら多くの人がその危険について気がついていないのではないかと思い、石井洋二郎教授の式辞に背中を押され、私なりに警告をしたつもりです。

ここまで読んでくださった読者の方々が、次回から入ってくる情報を少しでも疑ってくれるようになってくれたら、幸いです。

*私の記事も、鵜呑みにしないでください。

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