ひとはきっと、他者で満ちなどしないのだ。

こころ
3 min readJun 29, 2017

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私は私の寂しさを大切にすることができないので、寂しいときに大切な人に甘える気になれない、というロジックはあまりに自己正当化に過ぎるだろうか。真っ当な我儘を言うのは難しいから嫌いだ。得体の知れない寂しさが形になる夜、あなたがほしくて寂しいわけじゃないからあなたに寂しいと言えない。

信じてって泣くのも信じたいって泣くのも愛してって泣くのも愛したいって泣くのももう全部全部全部全部うんざりだから、生ぬるく重なって繋がっていればいいじゃない軽い覚悟でそれ以上欲しがらないで。

他人に対して関与しようとしない人の在り方は、ときにもどかしくときに切なく、けれど私の波立った心を凪がせるには最適だった。 私のファンクションが見えている関係。

とても愛しくてとても哀しくて、でも、とても楽。

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「目を奪われるものは多くあるだろう。しかし、心奪われるものだけを追い求めなさい。」というアメリカインディアンの旧い箴言があると聞く。どうせ生きるなら従いたいと思って生きてきた。

だからこそここで、目さえ奪われずに、理性だけで恋をしてみたかったのだ。 目を奪われたまま、気づいたら心を手繰られてずたずたにされるような恋ばかりしてきたから。 けれど、ねえ、それを「心を奪われる」と呼ぶんじゃないの?

奪われた心はいったいどこにいってしまったのだろう。

「知的好奇心と性的好奇心をごっちゃにするな」と詰られたことがあるけれど、正確に言うと「人恋しさと自分可愛さをごっちゃにするな」だと思う。人恋しさと自分可愛さを混同している。けれど、逃げているのか探しているのか両方なのか、それすら分からないまま泣き続けるのはもう嫌なのだ。

なぜみんな、私の寂しさを自分で埋めたがるのだろう。寂しさは寂しさとして、そこに在ってはいけないのだろうか。「俺がいるのに寂しいなんて思わないで」を、傲慢だとは思わないのだろうか。

自分の不完全さを認識する謙虚さがあって、それを我儘だとエクスキューズする客観性も持ち合わせているひとなのに、けれどいつだってそれよりつよく、「俺といるときに寂しいと思ってほしくない」という自意識をその言葉の裏に感じていた。その意識のフォーカスは、「君を満たしたい」ではなくて「君を満たしている俺」に絞られている。

この人の欲望を飲み込む権利があるのは私だけだし、私の欲望を満たす権利があるのはあなただけだ、という状況は、気分が乗っているときにはこの上なく甘美だけれど、気分の乗らないときにはこの上なく不快だ。

寂しさは紛らしたいけど、今夜眠るのはひとりがいい。

ひとりは寂しい。そして、誰といてもやっぱり寂しい。けれど、海にいるとときどき、ふ、と、もう寂しくないな、という気がして、こうして私は私に溺れていくのだろうか。

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こころ

生きる資格がないなんて憧れてた生き方