愛されたようにしか愛せない

私が唯一全面的に心底信じることのできた愛情は、10数年を共に生きた愛犬からもらったものなので、私の愛情表現は本質的に犬のそれに酷似している。具体的に挙げるなら、胸板に顔をこすりつける、指を含む、口裂け笑顔、背中を預けて眠る、といったところだろうか。

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表面的には人間らしく甘えたフリもできるけれど、本当はいつだってずっと甘え下手だった。こんなにも言語に縋って日々を生きているのに、皮肉なことに、愛を表現したり確かめたりしようとするときには、どうしようもなく非言語に頼らざるを得なくなってしまう。

長らく、我儘を承知の上で「観察して分析して推量してほしい」を標榜してきたけれど、「言葉で伝えて実現したこと」よりも「非言語的なメッセージを感知されて実現したこと」のほうに喜びを感じてしまうのも、ひょっとするとここに由来するのかもしれない。

過去に、 無力感と自己否定の泥沼で、もがくことさえできなくなりかけていたときに、私を見て、言葉を尽くして愛でて愛でて愛で続けてくれた人は、確かにある意味で私を救ってくれたけれど、同時にある意味での真の泥沼に私をひとり置き去りにもした。

言葉の発露も解釈もきわめて恣意的なものだ。 私が発する言葉はいつも私の心を映していたけれど、一方で他人の心を自分の言葉で代弁したり解釈したりすることの傲慢さに耐えられないと思うことは儘あったし、その歪みに耐えられる人の美意識のレベルにもおそらく私は耐えられない。他人の言葉を自分の言葉の物差しで評価するとき、そこに信じられる愛は生まれなかった。私にとって、言語的な愛は結局、非言語的な愛を代替しえないのかもしれない。

けれど、翻って、愛で荒れた心の模様を言葉に映すことでしか、私は私を取り戻せない。酷い夢から醒めた明け方はいつも、泣くことでもすり寄ることでも結局救われなくて、また眠りに引き込まれることにも耐えられずに必死で指先から心を零していた。 私から私の感情を引き剥がして距離を取らせ、なんとか日々を生きていける程度に鈍感にさせてくれるのは、自身の感情の観察者としてその感情を言語化する時間だけだ。

私は私を救いうるという事実と、私に救いえない私は私ではないという断定に拠って、今日もどうにか私の形を維持している。愛されたようにしか愛せない私はきっと、愛したようにしか愛されず、愛はそうして少しずつ、擦り減ってゆくものなのかもしれない。